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「新冷戦時代の超克」(片山杜秀著)読了 [読書]

著者は、むしろ、音楽評論家としてのほうが名が通っている。本業は、日本近代政治思想史研究で慶応大学法学部教授。本業というより、家業とか生業というのだろうか。とはいえ、どちらで主たる生計を立てているのかさえも定かではない。

そういう著者が、編集者を相手に雑談、放談的に語ったものが面白いということで本になった。雑誌に連載され、最後の2章が付け加えられ本書が出来上がっているそうだ。その2章は、戦中に雑誌「文学界」に掲載された、名だたる思想家、文筆家たちの座談会『近代の超克』を俯瞰したもの。座談会は「大東亜戦争」の思想的根拠を探ったものだが、そこに戦中、戦後に生き延びた知識人たちの生き様を見ている。本書の表題は、編集者がつけたものだそうだが、そのパロディというわけだ。

雑誌に連載された前半の三章は、今の時代をどう認識するかという時勢放談というわけだ。それは、冷戦時代は終わったが、その冷戦の遺構にとらわれたまま内外の政治も経済・財政も行方が定まらない状態が続いている。特に、日本を取り巻く東アジアは、南北朝鮮も、核抑止力による均衡も、日米同盟と中国・ロシアの覇権主義との軍事力対立も変わらない。イデオロギー対立という冷戦の核心だけが骨抜きにされたままの、その遺構への置き去り状態をすなわち「新冷戦時代」と著者は呼んでいるのだろう。

「冷戦」構造の惰性のようなものだが、この地域でのアメリカの経済・軍事両面での顕著な衰退が加わると、それはもうむしろ戦前の日本の矛盾だらけの不安定さ、不確かさにまで逆戻りだと言っても過言ではないというわけなのだろう。

座談会『近代の超克』には、小林秀雄などの文筆家だけでなく、作曲家の諸井三郎も加わっていたという。そこから作曲家の伊福部昭や映画監督の小津安二郎にまで話しが及ぶところが、いかにも著者らしい。

北海道生まれの伊福部は、アイヌ民族との共生から、西洋音楽にアジア的情感を混淆したハイブリッド様式を貫き、「大東亜共栄圏」であれ「戦後民主主義」であれそのままに生き抜いた。小津安二郎は、ハリウッド的大作に憧れ夢を見続けたのに、物資も資金もない耐乏と葛藤のなかで正反対の作風で日本を代表する映画監督として称揚されるに至った。

要するに、あまり元気を出さず、立派なことも言わず、つまりは現・憲法もそのままにして、目の前にある無数の具体的な小事象にこだわることが、この時代を生きる最善の生き様だというわけだ。何とも気が抜けるような評論だが、これがよくもわるくもいかにも本業不詳の著者らしい語り口なのだろう。


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新冷戦時代の超克
「持たざる国」日本の流儀
片山杜秀著
新潮新書

タグ:片山杜秀
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