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待望の新人ピアニスト (吉見友貴 ピアノ) [コンサート]

「待望の新人」というのはいかにも陳腐な修辞ですが、他に言い様がないという思いがあったのです。
紀尾井ホールの「明日への扉」は、新人の登竜門として一目も二目も置かれる存在です。そのことは、クラシックファンにとってもこれからプロのプレーヤーを目指す若い音楽家にとっても同じ。
だいたいオファーがあって出演が決まるのは、本番の1年前ぐらい前。伸び盛りの新人にとっては、あちらこちらから声がかかり、評判が評判を呼び、世界的なコンクールで輝かしい成績を収めるなど、あれよあれよという間に世間に知られ、本番の時にはすでに高い知名度を獲得していることも少なくない。
コロナ渦による影響で延期が相次ぎ、ここのところ「明日への扉」に出演する新人は出演する頃には、新人というのはいささかフレッシュさを失っていることが多かったのです。ところが、今回の吉見友貴さんは、久々に「明日への扉」らしい初々しさと、発見の喜びのようなものを鮮烈に投げかける大型新人の登場でした。
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プログラムに寄せたご本人のメッセージによれば、この日のプログラムの前半は、“静から動”の流れだとのこと。後半は、ここ1年最も力を注いで取り組んだシューマン。
その頭に、ヤナーチェクを選んだところが心憎い。
ヤナーチェクは、遅咲きの作曲家。この曲は、まだまだ不遇だった50代終わりの作品。近現代の予兆に満ちた響きのなかに、民俗的な旋律を断片的に配した内向的で瞑想と高まった情感が交錯する。まさに“静と動”が織りなす世界です。
対して、前半最後のショスタコーヴィチは、“静”がたちまちにして“動”へと変貌し、制御不動までに駆け上がり爆発していく一直線の世界。そのヴィルティオーシティは、いかにも“弾ける”大型新人にふさわしい。思わず「すげぇ~」と心の中でつぶやいてしまいました。
その点、中間のベートーヴェンはどうだったのでしょうか。ヤナーチェクの瞑想と情感のうねり、ショスタコーヴィチの壮烈なフーガ、その中間に作品110というのは、いかにも平仄が合っているかのようですが、どこか食べ合わせの悪さを感じてしまいます。ベートーヴェンの後期ソナタに畏れ多いということもあるかもしれませんが、持ち味ともいうような要素に不調和があって好ましくない化学反応を起こすとか、相性が悪いという感じがあります。事実、ベートーヴェンがかなり平板で言いたいことが伝わってこない退屈さを感じました。ここは、プロコフィエフとかスクリャービンか何かを合わせたいところだと思いました。
最後のシューマンがとても峻烈でした。
大変な大曲で、その技巧と音量は新人離れしています。壮大なピアノ音響は、このホールの最後列の低域特性とも相まって素晴らしい体感効果ですし、技巧的な意匠の変化のつけかたも堂々としていてどんどんと高揚していくトリップ感覚も十分。音や拍節を複雑に交錯させて刻むところは若々しい躍動感に満ちています。
「遺作変奏」の配置も、独自のもので、しかも完成度が高い。ポリーニなど、大概は「遺作」をまとめて第何曲目とその次の変奏との間にまとめて挟み込むのが常道です。ところが吉見さんは、それを1曲か2曲に分割し、順番も微妙に変更して挿入して演奏していました。確かに1年かけて取り組んだというだけあって、実によく練られたものだと感嘆します。
アンコールも、ドビュッシーの花火の鮮烈さを披露して余力十分なところを見せつける。最後は一転して留学先アメリカの現代作曲家ボルコムの代表作「優雅な幽霊のラグ」で意表をつく。ラグタイムで小粋にリサイタルを閉めました。
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紀尾井 明日への扉32
吉見友貴(ピアノ)
2022年9月9日(金) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 20列11番)
吉見友貴(ピアノ)
ヤナーチェク:霧の中で
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 op.110
ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ 第15番変ニ長調 op.87-15
シューマン:交響的練習曲 op.13
(アンコール)
ドビュッシー:前奏曲集第2巻より 第12曲〈花火〉
ウィリアム・ボルコム:グレイスフル・ゴースト・ラグ


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