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彩湖 [自転車散策・紀行]

戸田橋のひとつ上流には笹目橋がかかっています。

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笹目橋も見た目は面白みのない橋ですが、国道17号新大宮バイパスの上下2線と首都高池袋線の3つの橋の総称で大動脈となっています。

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そのまた少し上流には外環道の高架橋があります。

ここまで来ると、右岸も左岸も埼玉県になります。川の右左というのは何だかヘンですが、正式な定義では上流から下流に向かって右を右岸、左を左岸と言います。つまり、右岸の土手の途中で、板橋区と埼玉県和光市との境を越えたことになります。

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やがて、武蔵野線の鉄橋が見えてきます。

その上流に平行して秋ヶ瀬橋がかかっています。

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この秋ヶ瀬橋と笹目橋の間、約9kmほどの左岸河川敷は広大な調節池・貯水池である彩湖とその周辺の緑地公園がひろがっています。

彩湖は、1997年に完成。あまり一般には知られていない存在でしたが、一躍、注目を浴びたのは東京オリンピックのボート・カヌー競技会場問題でした。

莫大な施設建設費が小池百合子都知事によってやり玉に挙げられ、大もめにもめました。ボート会場として計画されていたのは「海の森競技場」。臨海地区である豊洲、有明、お台場のそのまた先の先、ゴミで埋め立てた土地の最果ての埋め立て地の防波堤と防波堤にはさまれた水路です。

1000億円を超えるまでに膨れ上がった工事費もさることながら、海水のボート場など非常識で、風や波浪の影響も懸念されるなどの問題山積で、最後までもめにもめました。その対抗馬のひとつとして宮城県とともに埼玉県が名乗りを上げたのが、この彩湖でした。

結局は、大山鳴動して鼠一匹、もとのさやに収まってしまいました。

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彩湖は、洪水や渇水のための調節池であり、なおかつ、首都圏の水需要をまかなう貯水池の二役を担っています。水流は、もともとあった貯水ダムである秋ヶ瀬堰からひかれています。大雨などによる増水時には導水を増やして荒川の水量を調節するわけです。

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あらためて実地で眺めてみると、その広大さに圧倒されました。

板橋区や和光市側からは、交通アクセスが大変です。結局、長い秋ヶ瀬橋を渡って左岸にたどり着きました。

とても河川敷にあるとは思えない広大で豊かな人工湖です。その水量は3,900万トン。貯水池としての彩湖に限れば貯水能力は1,060万トン。令和元年の台風19号に際しては、3,500万トンを記録しました。荒川下流の首都圏を守り切ったのです。

ふだんは、広大な緑地帯として市民の憩いの場所となっています。今は駐車場などが閉鎖されているので人影はまばらです。

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その中のグランドでは、県の防災ヘリコプターが訓練のための発着を繰り返していました。
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田端文士村 [自転車散策・紀行]

板橋の東は、北区滝野川、さらに東に行くと西ヶ原の町になります。

この一帯は、巣鴨や駒込の続きで山の手という風情がたっぷりの落ち着いた住宅街です。桜のソメイヨシノで有名な染井もすぐそばです。

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ここには、かつて東京外国語大学(東京外大)がありました。日本で最初の官立の外国語学校です。現在の東京外語大になるまでの経緯はちょっとややこしいのですが、元をただせば東大や一橋大とは同じルーツだということになります。

今は府中の方に移転してしまって、その跡地は大きな公園となって残っていますが、かつてここに外大があったという手がかりはまったくありません。

ちょっと寂しい気もしますが、そういう素っ気なさは、やはり、大学の設立の経緯が複雑で、その所在も、関東大震災やその後の神田火災などで仮校舎のような形で転々としたことがあるのだと思います。その跡地は、今の共立女子大であったり、あるいは、気象庁、毎日新聞社だったりで、ルーツをともにする一橋大の如水会館の横に「東京外語学校発祥の地」の碑ががひっそりと建てられています。

実際のところ、この西ヶ原の旧キャンパスも、戦時中に海軍の爆薬工場の跡に木造校舎を建てて移転したのが始まりだとか。私の記憶でも手狭な土地に建物が密集していたような気がします。日本の語学教育のメッカという権威を感じさせるものはなかったのです。

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古河庭園は都の管理ですから、もちろん、門は堅く閉じられています。何とも悲しい限りです。

古川庭園から田端駅へと向かいます。

この一帯はかつて名だたる芸術家、文士たちが集まり住んだ町です。

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駅前には田端文士村記念館が建っています。もちろん今の状況で玄関の扉はきっちりと閉じられイベント中止の張り紙があちこちに貼ってあるだけ。

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上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校し、次第に若い芸術家たちが住み着いたのがきっかけで明治期には、すっかり、《芸術家村》になっていました。大正期に入ると芥川龍之介、そして室生犀星が転居してきます。この二人を中心に、萩原朔太郎、菊池寛、堀辰雄、佐多稲子らも移り住み、昭和初期には《文士村》の景観を示すのです。

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けれども、今は、ごく平凡な東京の古い住宅地ということでしかありません。それらしいものは、密集した住宅の路地に建てられた芥川龍之介の旧居があったことを示す標識のみ。

この辺りは、高低差が激しくて、田端駅の周囲も実に複雑な地形です。

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この切り通しは山の手線開通のために切り開かれたそうです。積み上げた石垣は見事といえば見事ですが、いかにも明治時代の荒療治といった感じがする土木工事です。

その高台の坂を少し下ったところのお寺には、正岡子規のお墓があります。

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子規は、根津で病没していますが、生前「静かな寺に葬ってほしい」と言っていて、この寺が選ばれて葬られました。

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石碑のレリーフは、子規の時世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」にちなんだもの。命日は「糸瓜忌」と呼ばれて多くの人々がここにも参集するのだとか。

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青春時代 [自転車散策・紀行]

板橋から池袋を抜けてちょっとだけ足を延ばしてみました。

池袋は、今でこそ、渋谷、新宿と並ぶ東京の副都心といわれる繁華街ですが、かつては巣鴨や雑司ヶ谷などとともに東京近郊の農村地帯が宅地化されていった地域に過ぎませんでした。

今の山の手線の前身となる赤羽~品川間の路線が開業しても池袋に駅は無かったのです。その後、田端方面の支線が開通し分岐点に池袋駅が開設され東上鉄道や武蔵野鉄道が乗り入れてきます。けれども、その時点でも繁華街というよりは文教地区でした。

ようやく繁華街としての賑わいを見せるようになるのは、デパート(現・西武百貨店)が開店し東京市電が乗り入れてからのこと。それはようやく昭和の大戦直前の頃でした。駅周辺は戦後になって急激に繁華になっていったので、もともとの閑静な文教地区や住宅地が繁華街の喧騒に近接しています。

そういう文教地区と繁華街のギャップのようなものを感じさせる境界が池袋駅周辺のあちこちにありますが、池袋二叉交番から立教通りへ入っていく瞬間もそのひとつだと思います。

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立教大学は、いわゆるミッションスクール系としては同志社大学と並んで古い大学です。

ミッションスクールというのは、本来は伝道(ミッション)の使命を帯びて創建された学校のことですが、同志社大も立教大も、洋楽教育の高い志を持った私塾が母体となり、専門学校令、その後の大学令の発布とともに認可された私立の高等教育でしたから、むしろ私学の雄として慶應義塾や早稲田と並ぶ伝統校なのです。

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ここのキャンパスを眺めると、「蔦の絡まるチャペルで…」という歌のフレーズが浮かんできます。実際のところ、本館も礼拝堂も、そういう古い建築を包み込む蔦木の緑はいっそう深く鮮やかで、《学生時代》の思い出にふさわしい。

作曲した平岡精二の案は「大学時代」だったそうです。

歌手のペギー葉山が猛反対して「学生時代」というタイトルにしたということらしいのです。ともに青山学院の出身ですが、ペギー葉山は、大学には進学していません。伸び伸びとした若い青春にそぐわない『権威』の匂いがするからでしょうが、「大学」という識別タグには、「アイビー・リーグ」的な伝統校の専権めいたものを感じさせていた時代。一般世間には、敬意だけではなく羨望の裏返しの反発もあったし、あるいは遠慮のようなものもあった…のかもしれません。

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今は、正門は固く閉ざされ、キャンパスはひっそりと静まりかえっています。

山手通りに出て、西武池袋線も越えて南長崎まで足を延ばすと、そこにはまた別の青春時代があります。

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この地域は、戦後間もない混乱の時代に「帝銀事件」という、いまだに謎の多い怪事件があったところです。「帝国銀行」というのは、三井銀行の前身で、今の三井住友銀行につながる都市銀行ですが、その支店があった椎名町というのは当時からかなり繁華な住宅地だったわけです。

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けれども、そんな忌まわしい事件のことはすっかり忘れられ、この椎名町という土地は、今やアニメ大国となった日本の原点、マンガの聖地となっています。

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その聖地にふさわしい記念の復元施設を建設しようというプロジェクトが進められ、オープンを目前に控えていましたが、それもあえなく延期となってしまったままです。

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近藤勇 終焉の地 [自転車散策・紀行]

JR板橋駅東口のすぐ前に近藤勇の墓があります。

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近藤勇は、最後に千葉県流山で捕らえられ板橋宿まで連行され、ここで処刑されています。処刑場がこの板橋駅付近にあったのです。近藤は武士として切腹を願い出ますが、百姓の出だからと認められず斬首されます。

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実は近藤の墓というのは、たくさんあるそうです。首は処刑の後、京都に送られて三条河原で3日間さらされ、胴はこの近辺に埋葬されたとのことで、いずれも所在はよくわかっていないのです。

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ここは処刑場の隣で、お寺の境外墓地になります。明治まで生き延びた元隊士・永倉新八が発起人となってここに墓地が建てられました。つまりは、ここはお墓というよりは、近藤勇の終焉の地であり、その記念公園というわけです。

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その長倉の墓もここに建立されています。ほかにも土方歳三や新選組隊士の供養塔もあります。ここは今では北区の文化財に指定されています。

え?板橋なのに、北区?…と言われてしまいそうですね。

実は、このあたりは区境が入り組んでいて、JR板橋駅は、西口こそ板橋区板橋ですが、東口は北区滝野川で、ホームの大半は豊島区上池袋にあるという実にヘンテコな駅なのです。

この近辺の入り組み様はなかなかに面白くて、すぐそばには東武東上線の下板橋駅と北池袋の両駅があって、JR埼京線板橋駅とはいずれも目と鼻の先の距離。しかも、都営地下鉄三田線の新板橋駅もすぐ近く。数歩も歩けば最寄り駅が違ってしまいそう。

池袋にも近く、昔ながらの住宅地で道も入り組んでいますが、それだけに庶民的な駅前商店街があちこちの方向につながっていて、とても便利な土地柄です。

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そんな庶民デルタのど真ん中に、なぜか、地ビールの醸造所があります。

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ごく普通のマンションの1階に醸造施設と、パブやパーティ会場もあって、東京で気軽にマイビールを体験醸造できるというわけです。いつか、ここでビールを飲み比べてみようと思っていたら、新型コロナウィルス騒ぎになってしまいました。

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タグ:近藤勇 板橋
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王子の狐 [自転車散策・紀行]

王子と言えば、狐が有名です。

落語「王子の狐」も有名ですが、その伝承のみなもとは「王子の狐火」。

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東国三十三国の狐火が集まったということなんだそうです。そういう「王子の狐」は、実は王子神社のことではなく、そのすぐ近くにある王子稲荷のこと。

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王子神社の裏手、音無親水公園からJRの線路に沿って東十条方向に少し行くとその稲荷神社があります。

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やはり台地の端にあってここだけうっそうとした緑に囲まれています。

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この一帯には中央工学校の校舎がいくつも建っています。

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創立は明治42年と古く、折からの工業立国政策に呼応して、建築や機械工学、土木、電設などの実学を学ぶ工業専門学校で、夜学も開設しました。

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その卒業生に庶民宰相・田中角栄がいます。田中はよく小学校しか出ていない(高等小学校卒)と思われていますが、実は、最終学歴はこの中央工学校卒となっています。昭和9年に上京して、当時、神田にあったここの夜学に通い、建築士の資格も得ています。彼は根っからの土建屋でした。


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ここから再び坂道を上り十条台から埼京線の踏切を抜けていくと、十条銀座の商店街があります。

日本全国に「〇〇銀座」というのは300以上あるのだそうですが、ここは、戸越銀座、砂町銀座と並ぶ東京の三大銀座のひとつ。アーケードが無くなる先は富士見銀座となりますが、これが環七とぶつかる交差点までひとつながりとすれば600m以上の長さ。

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こういう地域の商店街は、なかなか接触8割減というわけにはいかないようです。
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王子権現 [自転車散策・紀行]

ご近所散歩。土曜日には王子近辺を散策しました。

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王子神社は、王子権現とも呼ばれ江戸名所のひとつとして親しまれてきました。「王子」の地名はこの神社が由来です。

古い神社で、創建はいつのことかわかりませんが、すでに平安時代、源義家が奥州征伐凱旋の折りに甲冑を奉納したとの記録が残っているそうです。紀州熊野から王子大神を迎えたとの縁から、紀州尾張家出身の8代将軍吉宗公もこれを喜び、飛鳥山を寄進し桜の名所としたことでも知られます。

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社殿の横の小道を抜けていくと、階段道が下っています。

その踊り場のそばにイチョウの大木があります。王子神社は空襲で灰燼に帰しましたが、このオオイチョウは数少ない生き残りなのだそうです。

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その階段を下りていくと、音無川親水公園があります。

音無川というのは、実は、石神井川の別名。かつてはここに石堰があって農業用水としていくつかに分流させていました。江戸時代蛍が飛び交う名水だったそうですが、今ではこの公園に当時の面影を復元するのみ。本流はどうも地下を通してJR王子駅の反対側につながっているようです。

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平常時には人工的なせせらぎを作って、子供たちのかっこうの遊び場になるはずでしたが、今は閉園しています。側道は人出は少ないですがいつものように散歩道となっています。

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陸軍造兵廠 [自転車散策・紀行]

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加賀公園から、石神井川にかかる金沢橋を渡り、埼京線の踏切を渡って、さらに、王子新道を進むと、斜面の上の小高いところ瀟洒な白い洋館が見えてきます。

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この建物は、東京第一陸軍造兵廠(兵器工場)の本部として昭和5年に建てられたもの。近寄って見ると、さして贅を尽くしたわけでもなく建物自体の文化価値は低いのかも知れませんが、終戦後には米軍に接収され王子キャンプ(野戦病院)として使われたこともあったそうで、今は区の文化センターとなっていて歴史的遺構が保存運用されています。

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ここは、十条、さらに赤羽台まで広がる丘陵地帯のちょうど南斜面で、石神井川の流れを見渡すポイントだったのでしょう。明治以降、この地域は日本の軍需品生産の一大拠点となっていました。

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この本部建物の傍らには、煙突の銘板が展示されています。

日露戦争直後に砲兵工廠が開設されレンガ造の工場棟が多数建設されて銃砲を製造していました。その工作機械の動力として英国バブコック&ウィルコックス社製の蒸気ボイラーが導入され、その煙突には東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われたのです。

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この区域は、戦後、すべて米軍に接収されました。朝鮮戦争当時には、M46パットン戦車が修理補修のために行列をなして一般道路にまであふれかえったと伝えられます。当時、最新のM46を補修できるのが極東ではここの工廠だけだったからだそうです。M46が道路で左右逆回転させてスピンターンしようものなら、アスファルト道路はたちどころにぐちゃぐちゃになったとか…。

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建物の裏には、64,000平米の広大な中央公園の緑地が整備されています。園内には野球場やテニスコートなどの施設や子供のためのサイクリングコースもあります。休日とあって家族連れやジョガーなどでにぎやかですが、十分なアウトドアのスペースは保たれています。

その敷地の続きには、区の中央図書館があります。

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この建物も、やはり造兵廠の赤レンガ倉庫の遺構を取り込みながら建設されました。「赤レンガ図書館」として区民に親しまれています。内部にも柱や壁、地下室などの遺構が巧みに内装として活かされたり、展示されたりしていて、建築としてもグッドデザイン賞を受賞しています。今はもちろん休館中です。

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そうした区の施設に隣接して、自衛隊の十条駐屯地があります。

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ここは、陸海空すべての補給本部が設置されていて、駐屯基地というよりは、自衛隊の兵站の指示中枢が置かれています。

明治以来、この地域が果たしてきた機能は、今もこうして引き継がれているというわけです。

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住宅地に囲まれた広大な敷地には多くの建物があって、内部の道路やトラックでトレーニングに励む隊員たちの姿も見えますが、むしろ人影はまばらで穏やかでした。

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板橋 [自転車散策・紀行]

「板橋」というのは、石神井川にかかる橋で、もちろん板橋区の「板橋」はここから来ています。

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ここは、旧中山道の板橋宿のあった場所です。

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板橋宿は、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住とならび江戸の表玄関ともいうべき大きな宿場町でした。街道に沿って、上宿、中宿、下宿と分かれていて、本陣のあった中宿が今の「仲宿」にあたり、商店街の中心になっています。

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いまはちょっとレトロでなおかつおしゃれな商店街になっています。大型連休の初日とあって、いつもより人出が多いようですが、普段からも散策するにはとてもよい町並みです。

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石神井川は両岸に緑道もあって、春には桜の花が咲き誇り、夏はうっそうとした緑に涼風がそよぐ気持ちのよい木陰が続く、これもまた散策にはもってこいの小道になっています。

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石神井川といえば、西東京から練馬にかけてのイメージがありますが、実は、隅田川の支流で、中流の石神井池からこの板橋、王子を経て隅田川に合流しています。

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板橋と王子の間は、加賀藩の21万坪におよぶ広大な下屋敷があった土地で、現在の地名になっています。そのほんの一部の築山が加賀公園として名残をとどめています。

その縁で、板橋区と金沢市は友好交流都市の関係にあります。

ちなみに、上屋敷は、今に赤門を遺す東京大学本郷キャンパス、中屋敷は現在の駒込で六義園に隣接する区域。百万石大名の敷地はとにかく広大で広範囲に及んでいました。

下屋敷は、板橋宿に隣接することから、参勤交代の行列が江戸へ入るにあたって旅装を解き江戸入城の威儀を整える場ともなりました。

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石神井川は、この下屋敷内を流れていましたから、その水利を利用して幕末には火薬製造や大砲の鋳造などが行われました。加賀藩は富山県五箇山を火薬の原料である焔硝生産地として確保し幕末に至るまで火薬生産の質と量において日本一の地位にあったのです。

この軍事生産拠点は、明治以降、この地域一帯を一大軍事補給の中心として発展させていくことになります。

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鹿浜橋~首都高速~江北橋~扇大橋~西新井橋 [自転車散策・紀行]

岩淵水門からさらに下流に向かって荒川の土手道を行きます。

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すぐ見えてくるのが鹿浜橋。

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環状7号線…いわゆる環七の大動脈が荒川を渡る橋です。1965年の架橋。その後、4車線に拡張され、水道道路も併用していて、地味な外観ながらその重要性は極めて大。環七を走る分にはほとんど意識されませんが、川から眺めるとなかなか堅強にして堂々とした威風を感じさせます。

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さらに下ると見えてくるのが首都高速中央環状線。これまでの橋とは違って地上とは何の縁も無いシュールな趣の上下2段の高架橋。荒川を渡る部分は「五色桜大橋」という名称を持つらしいけれど誰も知らないのではないでしょうか。

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ほぼそこと並行して架かるのが江北橋。

もともとは荒川改修工事のために敷設された木造橋でしたが、1966年に今の鋼製橋に掛け替えられました。幹線道路でもないので地味な存在です。周辺は戦前までは国指定名勝の荒川堤があって八重桜などが季節を彩る五色桜の名所でした。あのシュールな首都高の高架橋の名称もそこから来ているようです。

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その下流には扇大橋があります。この橋は都が管理していて1974年の竣工で、川に囲まれ隔てられた同じ足立区内を結ぶような形でかけられた比較的新しい橋です。

そのすぐ隣…というか、その上空(?)を日暮里・舎人ライナーの高架橋が架かっています。ここは首都高速の高架が荒川と並行で走っていてシュールな光景が続いています。

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さらに下流へと下ると、やはり、都道橋の西新井橋があります。ここはかつて「お化け煙突」を眺望する名所でした。

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この周辺は、隅田川とも近接していて土手の両側に二つの河川が近接しています。

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隅田川が蛇行する、その二つの河川に挟まれて孤立しているかのような地域は「宮城」と呼ばれています。戦国時代からこの地を治めていた宮城氏に由来する古い地名で寛永の頃には村落が形成されていました。隣接する地域の小台も歴史のある地名。

川に囲まれているために隣接区域に出るには、ほんのいくつかの橋を渡るしかなく迷子になりかけました。直線状の道路が交差する区域はいかにも人工的ですが、それは荒川の河道を掘削するために住民は転居を強いられ、事業後の区画整理事業がそういう町並みにしただけで、かつては豊かな田園地帯だったそうです。小台という地名も河川区域の高台にあって豊かな耕作地があったことを示しています。

対岸に渡り、首都高速の高架下の土手道を再び江北橋に戻って、ここから王子駅を目指します。
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新荒川大橋から再び戸田橋へ [自転車散策・紀行]

岩淵水門の少しだけ上流には、新荒川大橋がかかっています。

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これも何の変哲もない橋ですが、岩淵と埼玉県川口市とを結ぶ重要な交通路です。

この橋を埼玉県側に渡って土手道を遡ってみました。

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再び、戸田橋が見えてきます。

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ありました。旧戸田橋の埼玉県側の親柱です。

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この親水公園はちょうど戸田ボートコースのゴール側の流出口になっています。

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ボートコース(戸田漕艇場)は、先の東京オリンピックの会場でしたが、もともとは戦前の幻の東京オリンピックのために建設されました。

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コース両岸には各大学の艇庫が並んでいて、ここの風景を眺めていると映画「いちご白書」のオープニングシーンが目に浮かんできます。1970年に公開された、コロンビア大学の学生闘争を描いた映画ですが、主人公のサイモンは、ノンポリのボート部員。女性リーダーと知り合って彼女にひかれていき学生運動に引き込まれていく…。ビリーバンバンの「『いちご白書』をもう一度」のメロディも流れてきそうなシーンです。

ボートコースのスタート側は、競艇場になっています。

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がらんとした会場で、一艇だけがけたたましいエンジン音を立てて試走していました。

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