「日本のクラシック音楽は歪んでいる」(森本 恭正 著)読了 [読書]
日本の西洋音楽受容を一刀両断。日本のクラシック音楽ファンをすべて敵に回すような論調は、SNSで言うところの「釣り」手法、あるいは「炎上」商法とでも言うべきでしょうか。
そういう私も、ネットで話題になっているのを見て、まんまと釣り上げられて手にしてみたクチ。ただし、この著者には、10年前に同じ光文社新書で「西洋音楽論」という良著があって、作曲家・指揮者としてヨーロッパで活動してきた自身が西洋音楽の本質に覚醒していく経験を率直に語っていて、優れて啓蒙的なものでした。
というわけで、まずは著者の言い分を勝手に要約してみると次のようなものだと受け止めました。
批判1 戦前・戦後を通じて権威的存在だった井口基成が技術主義の元凶
批判2 明治の音楽教育は、本質を欠いた表面的な西洋音楽移植による機械論
批判3 明治政府の西洋音楽導入は、伝統邦楽の否定と軍事教育
批判4 日本人はダウンビート体質 アップビートを理解しない
批判5 西洋音楽は暴力的で平和志向の邦楽と相容れない
批判6 西洋音楽は階級社会的で資本主義・拡大主義
批判7 吉田秀和は、戦中内務省検閲に関わった権威主義者
批判8 楽譜に表記されていない音楽を再現発想する素養の欠如
批判9 日本人はフレージングが不得手(歌えない)
批判10 日本人の演奏は四角四面でスウィングがない
批判11 日本人は絶対音感偏重で相対音感が身についていない
批判12 コピーや既存知識ベースを組み合わせた最適解では創造はできない
多くは、かなり以前から言い古されてきたこと。著者自身、前著の使い回しというところもある。21世紀の現代、世界的に活躍する日本人作曲家、演奏家も多い。日本的な音楽伝統や美意識についての理解や共感も高まってきていて、日本文化に対する異国趣味一辺倒の好奇趣味的な視線はもはやほとんどない。それは決して著者の言うような西洋音楽(文化)の侵略支配とはいえないとも思います。その意味でも、著者の偽悪的な口調は、いささか時代錯誤なのではないでしょうか。
とはいえ、的確な指摘は多々ある。書きようによっては、クラシック音楽入門あるいは再入門として面白く読めるところも豊富にあったはず。学術的なささいな間違いで揚げ足をとられたり、吉田秀和批判などに拒否感を抱かれてしまうのは、編集部のそそのかしに安易にのってしまった著者の不徳の致すところというべきなのかもしれません。
もったいない。
日本のクラシック音楽は歪んでいる
12の批判的考察
森本 恭正 (著)
光文社新書
そういう私も、ネットで話題になっているのを見て、まんまと釣り上げられて手にしてみたクチ。ただし、この著者には、10年前に同じ光文社新書で「西洋音楽論」という良著があって、作曲家・指揮者としてヨーロッパで活動してきた自身が西洋音楽の本質に覚醒していく経験を率直に語っていて、優れて啓蒙的なものでした。
というわけで、まずは著者の言い分を勝手に要約してみると次のようなものだと受け止めました。
批判1 戦前・戦後を通じて権威的存在だった井口基成が技術主義の元凶
批判2 明治の音楽教育は、本質を欠いた表面的な西洋音楽移植による機械論
批判3 明治政府の西洋音楽導入は、伝統邦楽の否定と軍事教育
批判4 日本人はダウンビート体質 アップビートを理解しない
批判5 西洋音楽は暴力的で平和志向の邦楽と相容れない
批判6 西洋音楽は階級社会的で資本主義・拡大主義
批判7 吉田秀和は、戦中内務省検閲に関わった権威主義者
批判8 楽譜に表記されていない音楽を再現発想する素養の欠如
批判9 日本人はフレージングが不得手(歌えない)
批判10 日本人の演奏は四角四面でスウィングがない
批判11 日本人は絶対音感偏重で相対音感が身についていない
批判12 コピーや既存知識ベースを組み合わせた最適解では創造はできない
多くは、かなり以前から言い古されてきたこと。著者自身、前著の使い回しというところもある。21世紀の現代、世界的に活躍する日本人作曲家、演奏家も多い。日本的な音楽伝統や美意識についての理解や共感も高まってきていて、日本文化に対する異国趣味一辺倒の好奇趣味的な視線はもはやほとんどない。それは決して著者の言うような西洋音楽(文化)の侵略支配とはいえないとも思います。その意味でも、著者の偽悪的な口調は、いささか時代錯誤なのではないでしょうか。
とはいえ、的確な指摘は多々ある。書きようによっては、クラシック音楽入門あるいは再入門として面白く読めるところも豊富にあったはず。学術的なささいな間違いで揚げ足をとられたり、吉田秀和批判などに拒否感を抱かれてしまうのは、編集部のそそのかしに安易にのってしまった著者の不徳の致すところというべきなのかもしれません。
もったいない。
日本のクラシック音楽は歪んでいる
12の批判的考察
森本 恭正 (著)
光文社新書
タグ:森本 恭正
バッハの楽器博物館 (大塚直哉レクチャー・コンサート) [コンサート]
大塚直哉さんのレクチャー・コンサートは、もともと与野本町の彩の国さいたま芸術劇場で開催されていましたが、改修工事で休館中は浦和の埼玉会館小ホールで行われています。
この埼玉会館はとても歴史のある施設で、初代の建物は昭和天皇のご成婚を記念して計画されましたが、関東大震災による一時中断を乗り越え大正末年に竣工します。日比谷公会堂に先んじての開館でした。現在の建物は二代目で、上野の東京文化会館や神奈川県民音楽堂、京都のロームシアターと同じ、昭和のモダニズム建築の旗手・前川國男の設計。大ホールは音響の良いことで知られています。
小ホールは初めてですが、さすがに設計の古さは否めず、残響が短くステージはドライで座席側がライブなアコースティック。講演会などには向いていますが、クラシック音楽の小ホールには向いていないようです。ましてや、音量の小さな古楽器には不向き。それでも満席の皆さんは、実に静かに耳を澄ませておられます。
今回は、バッハの楽器博物館と題して、バッハの名曲をバロック時代の様々な古楽器で弾き分けて聴いてみようというもの。
いろいろな楽器を演奏するのですが、ヴァージナルなどは極小の音量。いわば小型チェンバロと言うべきものですが、バッハは家庭での練習用に使用したとのこと。何しろ家族が寝静まっていても練習できるようにと家庭に置いていた楽器。弦は縦ではなく横に張っていてコンパクト。蓋は自分だけに聞こえるように立てられる。だから、大塚さんが演奏するのは後向き。それでもやっと聞こえるかどうかの音量です。まさに耳を澄ませて聴き入ったわけです。なお、この楽器は、埼玉県在住の久保田工房で製作されたものだそうです。
リュートも小さな音量の楽器。二本ずつ13対の弦が張られている。つまり13弦とはいわず13コースなどと呼ぶ云われです。その繊細なこと。バッハは、リュート向けと指定しての作曲はしていませんし、よくリュートで演奏される曲であっても運指面ではほぼ不可能とも思えるほどの無理難題の曲ばかり。初めて演奏を目の当たりにしましたが、佐藤亜紀子さんの演奏は、とても優雅で繊細極まりない音色ですが、フーガなどはもうパズルを解いているかのような感じで唖然とさせられます。
一方で、とても音量が大きいのがオーボエ属。尾崎温子さんは、何台もの楽器を持ち替えてその音色を披露。特に、オーボエ・ダカッチャはカンタータや受難曲など声楽作品でしかお目にかかれないので、目の前で演奏されるのは希少な経験。実は、マタイ受難曲などでもわずかな休符の間に持ち替えるところがあって、演奏者にとってはまさに受難の曲なのだそうです。
バッハの音楽としては、これまた滅多に聴くことがないのがヴィオラ・ダ・ガンバ(英:ヴィオール)です。16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、コンソートといって弦楽四重奏のように盛んに演奏されました。けれども、たいがいは通奏低音のひとつとして参加する地味な存在で、バッハの室内楽で演奏されることは希少だと思います。最後のアンサンブルでは、トレブルという高域楽器を演奏されました。ヴァイオリンほどの小さサイズなのに、ガンバの名の通り両足に挟んでの演奏です。
演奏された森川麻子さんは、生で接するのは初めてですが大変な名人で驚きました。長年、イギリスに在住し、“FRETWORK”という世界的なコンソートグループの一員として活動されてきたそうで、日本ではその名を知ることができなかったわけだと納得しました。
森川さんが参加した演奏のCDで比較的入手が容易なのは、浜松市楽器博物館のコレクションシリーズのひとつである「ヴィオラ・ダ・ガンバ・コンソート」だと思います。ここで演奏しているザ・ロイヤル・コンソートは、森川さんら巨匠ヴィーラント・クイケン氏に学んだ3人が中心となって結成されたグループ。単なる博物館土産ではない、大変な名演・名盤です。
一昨年に帰国、現在は東京芸大の講師もされているとのこと、今後はその演奏に触れられる機会も多くなると期待が膨らみました。
大塚直哉レクチャー・コンサート in 埼玉会館
Vol.2 J.S.バッハの楽器博物館
2024年2月11日(日祝)14:00~
浦和市 埼玉会館 小ホール
(1階 3列13番)
大塚直哉(ポジティフ・オルガン、チェンバロ、クラヴィコード、お話)
ゲスト:
尾﨑温子(バロック・オーボエ、オーボエ・ダモーレ、オーボエ・ダ・カッチャ)
佐藤亜紀子(バロック・リュート、テオルボ)
森川麻子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
J. S. バッハ:
【鍵盤楽器】
「平均律クラヴィーア曲集第2巻」より〈第3番 前奏曲とフーガ 嬰ハ長調〉
コラール“ただ愛する神の力に委ねる物は”
小プレリュード ハ長調
【リュート】
前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調
【オーボエ】
カンタータ第156番“わが片足は墓にありて”
オーボエとチェンバロのためのソナタ ト短調
【ヴィオラ・ダ・ガンバ】
ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番 ト長調
【声楽作品の中で活躍する楽器たち】
★カンタータ第1番“暁の星はいと麗しきかな”
3.アリア ‘満たせ、天なる神の炎よ’より
★ミサ曲 ロ短調
10.アリア‘父の右に座したもう者よ’より
★マタイ受難曲
20.アリア‘私はイエスのそばで目覚めていよう’より
57.アリア‘来たれ、甘い十字架よ’より
★ヨハネ受難曲
19.アリオーソ‘思い見よ、わが魂’
【バッハ家の音楽会】
カンタータ第76番“天は神の栄光を語り”
ヨハネ受難曲
30.アリア‘事は成就された’
カンタータ第187番“ものみな汝をまてり”
5.アリア‘神はすべての命を与えたもう’
(アンコール)
カンタータ第106番“主よ、汝のしもべを裁くことなかれ”
3.アリア‘何と震えて揺らぐことか’
この埼玉会館はとても歴史のある施設で、初代の建物は昭和天皇のご成婚を記念して計画されましたが、関東大震災による一時中断を乗り越え大正末年に竣工します。日比谷公会堂に先んじての開館でした。現在の建物は二代目で、上野の東京文化会館や神奈川県民音楽堂、京都のロームシアターと同じ、昭和のモダニズム建築の旗手・前川國男の設計。大ホールは音響の良いことで知られています。
小ホールは初めてですが、さすがに設計の古さは否めず、残響が短くステージはドライで座席側がライブなアコースティック。講演会などには向いていますが、クラシック音楽の小ホールには向いていないようです。ましてや、音量の小さな古楽器には不向き。それでも満席の皆さんは、実に静かに耳を澄ませておられます。
今回は、バッハの楽器博物館と題して、バッハの名曲をバロック時代の様々な古楽器で弾き分けて聴いてみようというもの。
いろいろな楽器を演奏するのですが、ヴァージナルなどは極小の音量。いわば小型チェンバロと言うべきものですが、バッハは家庭での練習用に使用したとのこと。何しろ家族が寝静まっていても練習できるようにと家庭に置いていた楽器。弦は縦ではなく横に張っていてコンパクト。蓋は自分だけに聞こえるように立てられる。だから、大塚さんが演奏するのは後向き。それでもやっと聞こえるかどうかの音量です。まさに耳を澄ませて聴き入ったわけです。なお、この楽器は、埼玉県在住の久保田工房で製作されたものだそうです。
リュートも小さな音量の楽器。二本ずつ13対の弦が張られている。つまり13弦とはいわず13コースなどと呼ぶ云われです。その繊細なこと。バッハは、リュート向けと指定しての作曲はしていませんし、よくリュートで演奏される曲であっても運指面ではほぼ不可能とも思えるほどの無理難題の曲ばかり。初めて演奏を目の当たりにしましたが、佐藤亜紀子さんの演奏は、とても優雅で繊細極まりない音色ですが、フーガなどはもうパズルを解いているかのような感じで唖然とさせられます。
一方で、とても音量が大きいのがオーボエ属。尾崎温子さんは、何台もの楽器を持ち替えてその音色を披露。特に、オーボエ・ダカッチャはカンタータや受難曲など声楽作品でしかお目にかかれないので、目の前で演奏されるのは希少な経験。実は、マタイ受難曲などでもわずかな休符の間に持ち替えるところがあって、演奏者にとってはまさに受難の曲なのだそうです。
バッハの音楽としては、これまた滅多に聴くことがないのがヴィオラ・ダ・ガンバ(英:ヴィオール)です。16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、コンソートといって弦楽四重奏のように盛んに演奏されました。けれども、たいがいは通奏低音のひとつとして参加する地味な存在で、バッハの室内楽で演奏されることは希少だと思います。最後のアンサンブルでは、トレブルという高域楽器を演奏されました。ヴァイオリンほどの小さサイズなのに、ガンバの名の通り両足に挟んでの演奏です。
演奏された森川麻子さんは、生で接するのは初めてですが大変な名人で驚きました。長年、イギリスに在住し、“FRETWORK”という世界的なコンソートグループの一員として活動されてきたそうで、日本ではその名を知ることができなかったわけだと納得しました。
森川さんが参加した演奏のCDで比較的入手が容易なのは、浜松市楽器博物館のコレクションシリーズのひとつである「ヴィオラ・ダ・ガンバ・コンソート」だと思います。ここで演奏しているザ・ロイヤル・コンソートは、森川さんら巨匠ヴィーラント・クイケン氏に学んだ3人が中心となって結成されたグループ。単なる博物館土産ではない、大変な名演・名盤です。
一昨年に帰国、現在は東京芸大の講師もされているとのこと、今後はその演奏に触れられる機会も多くなると期待が膨らみました。
大塚直哉レクチャー・コンサート in 埼玉会館
Vol.2 J.S.バッハの楽器博物館
2024年2月11日(日祝)14:00~
浦和市 埼玉会館 小ホール
(1階 3列13番)
大塚直哉(ポジティフ・オルガン、チェンバロ、クラヴィコード、お話)
ゲスト:
尾﨑温子(バロック・オーボエ、オーボエ・ダモーレ、オーボエ・ダ・カッチャ)
佐藤亜紀子(バロック・リュート、テオルボ)
森川麻子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
J. S. バッハ:
【鍵盤楽器】
「平均律クラヴィーア曲集第2巻」より〈第3番 前奏曲とフーガ 嬰ハ長調〉
コラール“ただ愛する神の力に委ねる物は”
小プレリュード ハ長調
【リュート】
前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調
【オーボエ】
カンタータ第156番“わが片足は墓にありて”
オーボエとチェンバロのためのソナタ ト短調
【ヴィオラ・ダ・ガンバ】
ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番 ト長調
【声楽作品の中で活躍する楽器たち】
★カンタータ第1番“暁の星はいと麗しきかな”
3.アリア ‘満たせ、天なる神の炎よ’より
★ミサ曲 ロ短調
10.アリア‘父の右に座したもう者よ’より
★マタイ受難曲
20.アリア‘私はイエスのそばで目覚めていよう’より
57.アリア‘来たれ、甘い十字架よ’より
★ヨハネ受難曲
19.アリオーソ‘思い見よ、わが魂’
【バッハ家の音楽会】
カンタータ第76番“天は神の栄光を語り”
ヨハネ受難曲
30.アリア‘事は成就された’
カンタータ第187番“ものみな汝をまてり”
5.アリア‘神はすべての命を与えたもう’
(アンコール)
カンタータ第106番“主よ、汝のしもべを裁くことなかれ”
3.アリア‘何と震えて揺らぐことか’
若いクァルテット、シューベルトに挑戦する(プロジェクトQトライアルコンサート) [コンサート]
プロジェクトQというのは、若いクァルテットの発掘と育成を目的としたクァルテット振興運動。
トップオーケストラのメンバーも、どんどんと積極的に室内楽アンサンブルに参画するようになりました。副業奨励の働き方改革の先鞭をつけるような音楽界の動きでしたが、ウィーン・フィルなどは古くからそういう仕組みがあって、室内楽でアンサンブルを磨き音楽性を高められると、むしろ奨励されてきたこと。ついにその潮流は若いひとたちの育成現場にも及んできたというわけです。
参加する若いクァルテットは、「マスタークラス」を受講し、本公演の1か月前に「トライアル・コンサート」を経験した上で「本公演」に臨むという3つのプログラムを通し、約半年間で1つの作品に向き合う。私たちは、そのひとつひとつに聴衆として、つぶさに接することができるという仕組み。
会場は、東京音楽大学の中目黒・代官山キャンパス。池袋キャンパスは、何度かマスタークラスなどに出かけていますが、こちらは初めて。池袋と同じようにとてもモダンな建物で建築関係の賞ももらっている。
音楽ホールも、池袋に負けず素晴らしいホール。どちらも街中の音楽ホールもたじたじといった本格的なものですが、こちらは木組みのデザインがアイキャッチの素敵な内装。見るからに音は良さそう。座ったとたんに音楽に集中できる――そういうクリーンな響きのホールです。
1組目のクァルテット・テネラメンテは、若いシューベルトの第9番。
古典美のなかにロマンチックな情感の新鮮極まりない萌芽を見せるト短調のクァルテット。とても真摯な取り組みで繊細。しっかりとした構成美はとても安定しています。古典形式にしきりに現れる、繰り返しや回帰、回顧のシーンでもたらされる心理的な効果をどう追求するかが課題なのかもしれません。
2組目のクァルテット・アンジェリカは、定番中の定番「死と乙女」に挑戦。
アンサンブルが見事。第一ヴァイオリンの遠藤望名さんがちょっとハンパない。彼女をリーダーに、他の3人は2連、3連となって寄り添い、時に対峙して絡みつく。ヴィオラの細田菜々美さんもかっこいい。大学生・高校生の混交アンサンブルとは思えないレベルの高さで、シューベルトのリリシズムを歌い上げる。
ちょっと気になったのは、椅子の配置。
両グループとも共通の椅子で、あらかじめステージにバミってあるようで定位置なのですが、演奏前に微妙に位置取りを調整するので、少し違ってきます。
ただ、共通で気になるのは、チェロがまったく横を向いてしまうこと。
写真を撮れないので、イメージを図にしてみました。
クァルテット・テネラメンテは、中央の第二ヴァイオリンとヴィオラは正面を向き、両脇の第一ヴァイオリンとチェロを相対する。四角四面の配置ですが、ヴァイオリンはまだしもチェロの面が完全に横を向いてしまう。
クァルテット・アンジェリカは、さらに中央の二人がやや左の第一ヴァイオリンに寄っていて、しかもわずかにそちらを向く。右のチェロがやや取り残される格好ですが、チェロがさらにヴァイオリン側を向くので真横以上に内側向きになってしまいます。
音響面でもヴィジュアルな面でも好ましいとは思えません。特に「死と乙女」では、チェロが活躍する場面が多いので、ここは配慮してほしいところです。
こういうステージでの位置取りとか、ホール音響の確認などは、こうした演奏チャンスがなければ実感できることは少ない。マスタークラスから試演まで一貫した本格指導を受けられるのはすごいことなので、3月3日の本番までの仕上げが楽しみです。
プロジェクトQ・第21章
若いクァルテット、シューベルトに挑戦する
トライアル・コンサート 〈第1日〉
2024年2月10日(土)15:00
東京・中目黒 東京音楽大学 中目黒・代官山キャンパス TCMホール
クァルテット・テネラメンテ
[米岡結姫/佐久間基就(Vn)島 英恵(Va)金 叙賢(Vc)]
シューベルト:弦楽四重奏曲第9番ト短調 D.173
クァルテット・アンジェリカ
[遠藤望名/渡邉響子(Vn)細田菜々美(Va)森 朝美(Vc)]
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調 D.810「死と乙女」
トップオーケストラのメンバーも、どんどんと積極的に室内楽アンサンブルに参画するようになりました。副業奨励の働き方改革の先鞭をつけるような音楽界の動きでしたが、ウィーン・フィルなどは古くからそういう仕組みがあって、室内楽でアンサンブルを磨き音楽性を高められると、むしろ奨励されてきたこと。ついにその潮流は若いひとたちの育成現場にも及んできたというわけです。
参加する若いクァルテットは、「マスタークラス」を受講し、本公演の1か月前に「トライアル・コンサート」を経験した上で「本公演」に臨むという3つのプログラムを通し、約半年間で1つの作品に向き合う。私たちは、そのひとつひとつに聴衆として、つぶさに接することができるという仕組み。
会場は、東京音楽大学の中目黒・代官山キャンパス。池袋キャンパスは、何度かマスタークラスなどに出かけていますが、こちらは初めて。池袋と同じようにとてもモダンな建物で建築関係の賞ももらっている。
音楽ホールも、池袋に負けず素晴らしいホール。どちらも街中の音楽ホールもたじたじといった本格的なものですが、こちらは木組みのデザインがアイキャッチの素敵な内装。見るからに音は良さそう。座ったとたんに音楽に集中できる――そういうクリーンな響きのホールです。
1組目のクァルテット・テネラメンテは、若いシューベルトの第9番。
古典美のなかにロマンチックな情感の新鮮極まりない萌芽を見せるト短調のクァルテット。とても真摯な取り組みで繊細。しっかりとした構成美はとても安定しています。古典形式にしきりに現れる、繰り返しや回帰、回顧のシーンでもたらされる心理的な効果をどう追求するかが課題なのかもしれません。
2組目のクァルテット・アンジェリカは、定番中の定番「死と乙女」に挑戦。
アンサンブルが見事。第一ヴァイオリンの遠藤望名さんがちょっとハンパない。彼女をリーダーに、他の3人は2連、3連となって寄り添い、時に対峙して絡みつく。ヴィオラの細田菜々美さんもかっこいい。大学生・高校生の混交アンサンブルとは思えないレベルの高さで、シューベルトのリリシズムを歌い上げる。
ちょっと気になったのは、椅子の配置。
両グループとも共通の椅子で、あらかじめステージにバミってあるようで定位置なのですが、演奏前に微妙に位置取りを調整するので、少し違ってきます。
ただ、共通で気になるのは、チェロがまったく横を向いてしまうこと。
写真を撮れないので、イメージを図にしてみました。
クァルテット・テネラメンテは、中央の第二ヴァイオリンとヴィオラは正面を向き、両脇の第一ヴァイオリンとチェロを相対する。四角四面の配置ですが、ヴァイオリンはまだしもチェロの面が完全に横を向いてしまう。
クァルテット・アンジェリカは、さらに中央の二人がやや左の第一ヴァイオリンに寄っていて、しかもわずかにそちらを向く。右のチェロがやや取り残される格好ですが、チェロがさらにヴァイオリン側を向くので真横以上に内側向きになってしまいます。
音響面でもヴィジュアルな面でも好ましいとは思えません。特に「死と乙女」では、チェロが活躍する場面が多いので、ここは配慮してほしいところです。
こういうステージでの位置取りとか、ホール音響の確認などは、こうした演奏チャンスがなければ実感できることは少ない。マスタークラスから試演まで一貫した本格指導を受けられるのはすごいことなので、3月3日の本番までの仕上げが楽しみです。
プロジェクトQ・第21章
若いクァルテット、シューベルトに挑戦する
トライアル・コンサート 〈第1日〉
2024年2月10日(土)15:00
東京・中目黒 東京音楽大学 中目黒・代官山キャンパス TCMホール
クァルテット・テネラメンテ
[米岡結姫/佐久間基就(Vn)島 英恵(Va)金 叙賢(Vc)]
シューベルト:弦楽四重奏曲第9番ト短調 D.173
クァルテット・アンジェリカ
[遠藤望名/渡邉響子(Vn)細田菜々美(Va)森 朝美(Vc)]
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番ニ短調 D.810「死と乙女」
タグ:東京音楽大学
彩の国さいたま芸術劇場リニューアル内覧会 [音楽]
彩の国さいたま芸術劇場の改修工事が終了しました。3月1日にリニューアルオープン。その内覧会に行って来ました。
改修工事のテーマは、「安心」「快適」「充実」の3つ。
ますは、天井を準構造化し耐震性を高めたこと。3Dスキャン技術で工事前と後で形状はまったく同じで音響への影響は皆無。空調を更新し感染対策としての換気量も見直したそうです。また、排煙・消火設備も充実させたとのこと。
快適さという点では、客席椅子をリフレッシュ。確かに座り心地もよくなりました。音楽ホールは、圧倒的に静粛性が向上したそうです。もともと静かな環境立地なのですが、音楽ホールとしての静寂性は確かに感じ取れます。
デモンストレーションでは、スクリャービンの幻想曲が披露されました。このホールの音響はとても気に入っています。静音の美しさがさらにアップした気がします。
舞台装置の充実ということは、ほとんどが劇場用の大ホールのお話し。デモンストレーションでは、吊り物機構の華々しいショーがあって面白かった。緞帳やオペラカーテンの上げ下げが音一つせず、スムーズで実に見事。
こういう内覧会は楽しい。多くの人々が詰めかけてきて、びっくり。大ホールも音楽ホールも満席でした。
このホールは、我が家からは電車1本で便利だし、音響も気に入っていたのでリオープンはうれしい。
改修工事のテーマは、「安心」「快適」「充実」の3つ。
ますは、天井を準構造化し耐震性を高めたこと。3Dスキャン技術で工事前と後で形状はまったく同じで音響への影響は皆無。空調を更新し感染対策としての換気量も見直したそうです。また、排煙・消火設備も充実させたとのこと。
快適さという点では、客席椅子をリフレッシュ。確かに座り心地もよくなりました。音楽ホールは、圧倒的に静粛性が向上したそうです。もともと静かな環境立地なのですが、音楽ホールとしての静寂性は確かに感じ取れます。
デモンストレーションでは、スクリャービンの幻想曲が披露されました。このホールの音響はとても気に入っています。静音の美しさがさらにアップした気がします。
舞台装置の充実ということは、ほとんどが劇場用の大ホールのお話し。デモンストレーションでは、吊り物機構の華々しいショーがあって面白かった。緞帳やオペラカーテンの上げ下げが音一つせず、スムーズで実に見事。
こういう内覧会は楽しい。多くの人々が詰めかけてきて、びっくり。大ホールも音楽ホールも満席でした。
このホールは、我が家からは電車1本で便利だし、音響も気に入っていたのでリオープンはうれしい。
タグ:彩の国さいたま芸術劇場
「新鋭とベテラン」 (清水和音の名曲ラウンジ) [コンサート]
このシリーズの楽しみは、そのフレッシュな顔ぶれと、昼前の1時間という気楽さにもかかわらずそうそうたるメンバーによる本気の演奏。
今回は、そういう新鋭とベテランによるコンビネーション。
ヴァイオリンの石川未央さんは、桐朋学園の特待生4年生。実は、ヴァイオリンとピアノの両刀遣いで、ピアノの方は本科生で清水和音さんの生徒さんなんだとか。ピアノレッスンにはヴァイオリン持参で、ヒマさえあればこちょこちょとそっちを弄ってばかりだとは先生の清水さんの弁。
クライスラーの3曲は、それぞれのキャラクターを弾き分ける。小柄ながらもなかなかに力強い。
メインは、ブラームスのピアノ五重奏曲。
第一ヴァイオリンは、大江肇さん。新鋭と言っても、昨年、神奈川フィルのコンサートマスターに就任。大人気の首席ソロ・コンサートマスターの石田泰尚さんと、堂々とタッグを組むというわけだから、こちらは厳然たるプロ。
石川さんは、重鎮のの佐々木亮さん、辻本玲さんにはさまれるようにして、ちょっと窮屈そう。それでものびのびと、ブラームスの交響的掛け合いに積極的に参加。ブラームスの労作とはいえ、吉田秀和をして「通俗的なくらいに有名な作品」と言わしめた室内合奏曲。ブラームスの重々しい重奏のなかに押し込められるので、どうしても石川さんのヴァイオリンは埋没してしまいがち。
才能に恵まれて、場慣れしているようでも、クライスラーやトークでもちょっと緊張している様子。子供の頃から並外れた才能を発揮し、ヴァイオリンもピアノも弾けるマルチタレントというのは、若いうちだからこそのちょっと出来過ぎの部分もあって、それだけに慣れた振る舞いを装えば装うほど印象が薄まりがち。クライスラーのポピュラー名曲というありきたりのお披露目もちょっと何だかなぁ…という感じ。
フレッシュな若手をどんどんと押し出したいという清水さんの趣意には大いに賛同するけれど、リラックスした雰囲気作りも大事だし、もう少しご本人のキャラを引き出すようなステージやプログラムの工夫があってもよいかなと思いました。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第46回「新鋭とベテラン」
2024年2月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列18番)
クライスラー:「美しきロスマリン」「愛の悲しみ」「愛の喜び」
石川未央(Vn) 清水和音(Pf)
ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調作品34
大江馨(Vn) 石川未央(Vn)佐々木亮(Va) 辻本玲(Vc) 清水和音(Pf)
今回は、そういう新鋭とベテランによるコンビネーション。
ヴァイオリンの石川未央さんは、桐朋学園の特待生4年生。実は、ヴァイオリンとピアノの両刀遣いで、ピアノの方は本科生で清水和音さんの生徒さんなんだとか。ピアノレッスンにはヴァイオリン持参で、ヒマさえあればこちょこちょとそっちを弄ってばかりだとは先生の清水さんの弁。
クライスラーの3曲は、それぞれのキャラクターを弾き分ける。小柄ながらもなかなかに力強い。
メインは、ブラームスのピアノ五重奏曲。
第一ヴァイオリンは、大江肇さん。新鋭と言っても、昨年、神奈川フィルのコンサートマスターに就任。大人気の首席ソロ・コンサートマスターの石田泰尚さんと、堂々とタッグを組むというわけだから、こちらは厳然たるプロ。
石川さんは、重鎮のの佐々木亮さん、辻本玲さんにはさまれるようにして、ちょっと窮屈そう。それでものびのびと、ブラームスの交響的掛け合いに積極的に参加。ブラームスの労作とはいえ、吉田秀和をして「通俗的なくらいに有名な作品」と言わしめた室内合奏曲。ブラームスの重々しい重奏のなかに押し込められるので、どうしても石川さんのヴァイオリンは埋没してしまいがち。
才能に恵まれて、場慣れしているようでも、クライスラーやトークでもちょっと緊張している様子。子供の頃から並外れた才能を発揮し、ヴァイオリンもピアノも弾けるマルチタレントというのは、若いうちだからこそのちょっと出来過ぎの部分もあって、それだけに慣れた振る舞いを装えば装うほど印象が薄まりがち。クライスラーのポピュラー名曲というありきたりのお披露目もちょっと何だかなぁ…という感じ。
フレッシュな若手をどんどんと押し出したいという清水さんの趣意には大いに賛同するけれど、リラックスした雰囲気作りも大事だし、もう少しご本人のキャラを引き出すようなステージやプログラムの工夫があってもよいかなと思いました。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第46回「新鋭とベテラン」
2024年2月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列18番)
クライスラー:「美しきロスマリン」「愛の悲しみ」「愛の喜び」
石川未央(Vn) 清水和音(Pf)
ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調作品34
大江馨(Vn) 石川未央(Vn)佐々木亮(Va) 辻本玲(Vc) 清水和音(Pf)
「新 古事記」(村田喜代子 著)読了 [読書]
作者がふと手にした、原爆開発の手記がもとになっています。
巻末の「謝辞」によると、その手記は、科学者の夫と共にニューメキシコ辺境に暮らした女性が記したもの。夫が勤めるロスアラモスの研究施設が原爆開発のためのものとは知らぬままに2年の歳月が過ぎた。新婚の彼女は、世界と隔絶した岩山の台地で両親に住所を知らせることもできず、夫の仕事の内容も教えられないままに家事と子育てに明け暮れたという。
マンハッタン計画。科学技術の軍事利用、それに加担する科学者たち。
そうした科学者たちの痛切な悔恨。原爆開発を強く提唱し、開発に関わった科学者の大半がホロコーストの恐怖から逃れたユダヤ人科学者たちだったこと。人種差別。日系移民迫害やそれを煽りたてるNYタイムズなどマスコミの執拗な日本人蔑視キャンペーン。ユダヤ人たちの成就は、その意図とは異なって、日本人の頭上で閃光となってすべてを焼き尽くすことになります。
そうした重たいテーマが、さりげない女性たちの日常のなかから薄明かりに照らし出されるように浮かび上がってきます。
集められた科学者はみな若い。だからロスアラモスは新婚さんだらけで、入所後のニューカップルも加わって、ちょっとした出産ラッシュになります。軍が警備する研究施設には大きな産院棟が増設される。
「あたし」は、そんなカップルのひとり。幼なじみの恋人についてきて、親にも知らせることができないままに、辺境の地で式をあげ、やがて身ごもる。柵の外にある動物病院の受付係を勤めているが、研究員が連れてきたペットで大忙し。最初はストレスで病んでいた愛犬たちも、繁殖期を迎えるとやがて人間と同じように出産ラッシュとなって殺到する。
新しい生命の誕生と大量破壊兵器の開発。「あたし」の日常は一見平和のようでいて、静かに湧き上がってくる不安と恐怖がある。時にはくぐもるような原因不明の怒りのようなものがこみ上げて来さえもする。ヒットラーが自殺を遂げ、ルーズベルトが脳卒中で死んでも、日本との戦争は続いている。
「あたし」は、自分が日系移民ではないけれども日本の血をひいていているということを夫に打ち明けた。リンカーン大統領の時に咸臨丸でアメリカにやってきた水夫の孫にあたる。…幼なじみの夫は、押し黙ったままだけど驚く様子もない。
ある日、研究員はこぞって行列を成して機材を積み込んだトラックで遠方を目指して出発する。その家族たちは、隊列が向かった方向とは違う遠望の効く山の頂点を目指す。そこで輝かしい閃光を見るためだ。
「あたし」の夫だけは、隊列には加わろうとせずそれに背を向けるようにして家にこもる。身ごもっていた「あたし」は、その夫とふたりで部屋のなかでひっそりと身を潜める。
ユダヤ人の聖典「タナハ」(旧約聖書)「創世記」では、神がまず「光あれ」と言う。すると光が現れ、闇とを分けた。それが天地創造の第一日の朝となる。
「わたし」の祖先の国の神話は、それとはだいぶ違う。背中合わせで決して顔を合わせないというほどに、とても対照的。
女神のイザナミの「成なり成なりて、成なり合あはざるところ」を、男神のイザナギの「成り成りて成り余あまれるところ」で「刺し塞たぎ」て、国を生み成す。…それが「古事記」の国生みの物語。
作者は、この小説の表題のいわれをひと言も語っていません。
でも、もともと作者は、胚胎というありふれている生の営みの、えも知れぬ不思議に、並々ならぬ関心をもって小説を書きつづってきたところもあります。それは、皮肉たっぷりのユーモアにあふれているけど、どこかに生命のぬくもりを感じさせます。今の私たちは、そういう辛辣な矛盾から逃れられないところに生きています。
この作家の傑作かもしれない。
新 古事記
村田喜代子
講談社
2023年8月8日 第一刷
初出(「新「古事記」an impossible story) 「群像」連載 2022年~23年
巻末の「謝辞」によると、その手記は、科学者の夫と共にニューメキシコ辺境に暮らした女性が記したもの。夫が勤めるロスアラモスの研究施設が原爆開発のためのものとは知らぬままに2年の歳月が過ぎた。新婚の彼女は、世界と隔絶した岩山の台地で両親に住所を知らせることもできず、夫の仕事の内容も教えられないままに家事と子育てに明け暮れたという。
マンハッタン計画。科学技術の軍事利用、それに加担する科学者たち。
そうした科学者たちの痛切な悔恨。原爆開発を強く提唱し、開発に関わった科学者の大半がホロコーストの恐怖から逃れたユダヤ人科学者たちだったこと。人種差別。日系移民迫害やそれを煽りたてるNYタイムズなどマスコミの執拗な日本人蔑視キャンペーン。ユダヤ人たちの成就は、その意図とは異なって、日本人の頭上で閃光となってすべてを焼き尽くすことになります。
そうした重たいテーマが、さりげない女性たちの日常のなかから薄明かりに照らし出されるように浮かび上がってきます。
集められた科学者はみな若い。だからロスアラモスは新婚さんだらけで、入所後のニューカップルも加わって、ちょっとした出産ラッシュになります。軍が警備する研究施設には大きな産院棟が増設される。
「あたし」は、そんなカップルのひとり。幼なじみの恋人についてきて、親にも知らせることができないままに、辺境の地で式をあげ、やがて身ごもる。柵の外にある動物病院の受付係を勤めているが、研究員が連れてきたペットで大忙し。最初はストレスで病んでいた愛犬たちも、繁殖期を迎えるとやがて人間と同じように出産ラッシュとなって殺到する。
新しい生命の誕生と大量破壊兵器の開発。「あたし」の日常は一見平和のようでいて、静かに湧き上がってくる不安と恐怖がある。時にはくぐもるような原因不明の怒りのようなものがこみ上げて来さえもする。ヒットラーが自殺を遂げ、ルーズベルトが脳卒中で死んでも、日本との戦争は続いている。
「あたし」は、自分が日系移民ではないけれども日本の血をひいていているということを夫に打ち明けた。リンカーン大統領の時に咸臨丸でアメリカにやってきた水夫の孫にあたる。…幼なじみの夫は、押し黙ったままだけど驚く様子もない。
ある日、研究員はこぞって行列を成して機材を積み込んだトラックで遠方を目指して出発する。その家族たちは、隊列が向かった方向とは違う遠望の効く山の頂点を目指す。そこで輝かしい閃光を見るためだ。
「あたし」の夫だけは、隊列には加わろうとせずそれに背を向けるようにして家にこもる。身ごもっていた「あたし」は、その夫とふたりで部屋のなかでひっそりと身を潜める。
ユダヤ人の聖典「タナハ」(旧約聖書)「創世記」では、神がまず「光あれ」と言う。すると光が現れ、闇とを分けた。それが天地創造の第一日の朝となる。
「わたし」の祖先の国の神話は、それとはだいぶ違う。背中合わせで決して顔を合わせないというほどに、とても対照的。
女神のイザナミの「成なり成なりて、成なり合あはざるところ」を、男神のイザナギの「成り成りて成り余あまれるところ」で「刺し塞たぎ」て、国を生み成す。…それが「古事記」の国生みの物語。
作者は、この小説の表題のいわれをひと言も語っていません。
でも、もともと作者は、胚胎というありふれている生の営みの、えも知れぬ不思議に、並々ならぬ関心をもって小説を書きつづってきたところもあります。それは、皮肉たっぷりのユーモアにあふれているけど、どこかに生命のぬくもりを感じさせます。今の私たちは、そういう辛辣な矛盾から逃れられないところに生きています。
この作家の傑作かもしれない。
新 古事記
村田喜代子
講談社
2023年8月8日 第一刷
初出(「新「古事記」an impossible story) 「群像」連載 2022年~23年
誠実と清新 (札幌交響楽団東京公演) [コンサート]
札幌交響楽団を聴くのは初めて。ほんとうなら本拠地のあのKitaraで聴いてみたかったけれど、せっかくの機会を逃すことはありません。しかも、ポストリッジのブリテンも聴ける!
ブリテンの「セレナード」は、ブリテンのパートナーのピアーズと天才ブレインの存在無くしては成立しなかったでしょう。だから武満徹の「ノーヴェンバー・ステップス」のようにソリストを限定してしまうようなところがあります。現役となると、ポストリッジということにほぼ固定してしまいます。
私は2006年の水戸で聴いたきり。ずいぶんと前のことになりますが、もちろんその時もポストリッジ。ホルンはラデグ・バボラーク、指揮者は準・メルクル。同じ頃にリリースされたラトル/ベルリン・フィルのCDを上回る感動を受けました。
そのポストリッジによる再体験というわけですが、前回をさらに上回る感動でした。大ホールにもかかわらず声量は透徹するように響き、発音も明瞭そのもの。アレグリーニはもちろん初体験ですが、バボラークとはまた違ったコントロー力ルの高さで、その音色や質感の生々しさ、音楽的な心象描写の深みという点ではバボラークの名人芸を上回るような気さえします。
8-6-6-4-2と編成を絞った弦楽オーケストラの響きは、二人のソロと十分に対等に渡りあうもので、その清透な響きは冴え冴えとしていて、ブリテンの曲調をよく表現しています。
曲の絶頂は、第4曲の《エレジー》でしょう。何ともまがまがしい詩の投げつけるような語感が見事で、ホルンのゲシュトップやグリッサンドなどの特殊奏法に息を呑む思いがします。続く《哀悼歌》の古風な英語や素朴な曲調はどこか時空の圏外に出てしまったような魂の孤独を感じさせ、徐々に深暁の果てへと漂っていきます。最後のエピローグでの舞台裏からのホルンは、ホールのアコースティックが悪くて少し残念でしたが、余韻は見事でした。
後半はブルックナー。
なかなか演奏される機会は少ない第6番ですが、その理由はやはり曲想がぎこちなく、オーケストレーションにもどこか和声的な洗練が不足するところがあるからでしょうか。その分、最もブルックナー的な深遠さがあるとも言えます。
第一楽章の羽毛が跳ね散るような音型の開始と、それに続く猛々しい金管のユニゾンからして、どこか分裂気味に感じます。ブルックナーは教会のような長く尾を引く残響まみれのアコースティックを前提に作曲しているようなところがあって、あの《ブルックナー休止》もそうでなければ納まりがつかないという気がします。この6番は、その休止も封印していて訥々と音が連なっていく。そういうブルックナーにとても誠実に寄り添い、ありのままに音を積み上げていく。そういう気質は、このオーケストラの本来の美質なのか、あるいは、指揮者のバーメルトの本性なのか、いずれにしても使い古された外連味とか骨董趣味とは無縁の、丁寧に手間をかけて磨き上げられた清新なブルックナーです。
その美質は、特に第2楽章のアダージョに現れます。ブリテンで聴いたことと同じような透明感、分離の良さ、――そこには、虚飾のない無垢の真情を感じさせます。続くスケルツォ楽章の何と潔いこと。そして、終楽章の大団円なのですが、そこには短い簡素な章句を次々に接合していく、ミニマルなものを組み上げた壮大な仏塔のよう。音響の融合、和声のピラミッド…といったブルックナーのステレオタイプとはまったく違った装飾的な建築意匠を思わせる構造の新鮮さを覚えるほど。それもこれも、楽曲に対してどこまでも誠実さを貫き通す演奏姿勢がもたらしてくれたものだと思うのです。
指揮者のバーメルトは、6年の長き首席指揮者の任を退くことになっていてこの公演が最後とのこと。初めて聴いたのに、その退任を惜しむ気持ちで胸が一杯になるのが不思議な気がしました。
札幌交響楽団
東京公演2024
2024年1月31日 19:00
東京・赤坂 サントリーホール
(1階5列30番)
指揮:マティアス・バーメルト
テノール:イアン・ポストリッジ
ホルン:アレッシオ・アレグリーニ
コンサートマスター:田島高宏
ブリテン:セレナード~テノール、ホルンと弦楽のための
ブルックナー:交響曲第6番イ長調 WAB106
ブリテンの「セレナード」は、ブリテンのパートナーのピアーズと天才ブレインの存在無くしては成立しなかったでしょう。だから武満徹の「ノーヴェンバー・ステップス」のようにソリストを限定してしまうようなところがあります。現役となると、ポストリッジということにほぼ固定してしまいます。
私は2006年の水戸で聴いたきり。ずいぶんと前のことになりますが、もちろんその時もポストリッジ。ホルンはラデグ・バボラーク、指揮者は準・メルクル。同じ頃にリリースされたラトル/ベルリン・フィルのCDを上回る感動を受けました。
そのポストリッジによる再体験というわけですが、前回をさらに上回る感動でした。大ホールにもかかわらず声量は透徹するように響き、発音も明瞭そのもの。アレグリーニはもちろん初体験ですが、バボラークとはまた違ったコントロー力ルの高さで、その音色や質感の生々しさ、音楽的な心象描写の深みという点ではバボラークの名人芸を上回るような気さえします。
8-6-6-4-2と編成を絞った弦楽オーケストラの響きは、二人のソロと十分に対等に渡りあうもので、その清透な響きは冴え冴えとしていて、ブリテンの曲調をよく表現しています。
曲の絶頂は、第4曲の《エレジー》でしょう。何ともまがまがしい詩の投げつけるような語感が見事で、ホルンのゲシュトップやグリッサンドなどの特殊奏法に息を呑む思いがします。続く《哀悼歌》の古風な英語や素朴な曲調はどこか時空の圏外に出てしまったような魂の孤独を感じさせ、徐々に深暁の果てへと漂っていきます。最後のエピローグでの舞台裏からのホルンは、ホールのアコースティックが悪くて少し残念でしたが、余韻は見事でした。
後半はブルックナー。
なかなか演奏される機会は少ない第6番ですが、その理由はやはり曲想がぎこちなく、オーケストレーションにもどこか和声的な洗練が不足するところがあるからでしょうか。その分、最もブルックナー的な深遠さがあるとも言えます。
第一楽章の羽毛が跳ね散るような音型の開始と、それに続く猛々しい金管のユニゾンからして、どこか分裂気味に感じます。ブルックナーは教会のような長く尾を引く残響まみれのアコースティックを前提に作曲しているようなところがあって、あの《ブルックナー休止》もそうでなければ納まりがつかないという気がします。この6番は、その休止も封印していて訥々と音が連なっていく。そういうブルックナーにとても誠実に寄り添い、ありのままに音を積み上げていく。そういう気質は、このオーケストラの本来の美質なのか、あるいは、指揮者のバーメルトの本性なのか、いずれにしても使い古された外連味とか骨董趣味とは無縁の、丁寧に手間をかけて磨き上げられた清新なブルックナーです。
その美質は、特に第2楽章のアダージョに現れます。ブリテンで聴いたことと同じような透明感、分離の良さ、――そこには、虚飾のない無垢の真情を感じさせます。続くスケルツォ楽章の何と潔いこと。そして、終楽章の大団円なのですが、そこには短い簡素な章句を次々に接合していく、ミニマルなものを組み上げた壮大な仏塔のよう。音響の融合、和声のピラミッド…といったブルックナーのステレオタイプとはまったく違った装飾的な建築意匠を思わせる構造の新鮮さを覚えるほど。それもこれも、楽曲に対してどこまでも誠実さを貫き通す演奏姿勢がもたらしてくれたものだと思うのです。
指揮者のバーメルトは、6年の長き首席指揮者の任を退くことになっていてこの公演が最後とのこと。初めて聴いたのに、その退任を惜しむ気持ちで胸が一杯になるのが不思議な気がしました。
札幌交響楽団
東京公演2024
2024年1月31日 19:00
東京・赤坂 サントリーホール
(1階5列30番)
指揮:マティアス・バーメルト
テノール:イアン・ポストリッジ
ホルン:アレッシオ・アレグリーニ
コンサートマスター:田島高宏
ブリテン:セレナード~テノール、ホルンと弦楽のための
ブルックナー:交響曲第6番イ長調 WAB106
「未完のファシズム」(片山 杜秀 著)読了 [読書]
論旨はいたって明解。
エリート軍人たちは、始めから米英と戦争すれば国家滅亡に至ると知っていた。けれども、軍人の分をわきまえれば「負ける」「戦わない」と表立っては言えない。本音は負けるとわかっていても、表向きは勝てると言っていただけ…というのです。
*『統帥綱領』『戦闘綱要』を執筆した小畑敏四郎:
なるべく短期で決着する戦争をすればいい、それ以外は負けるからやれない
*満州事変を引き起こした張本人の石原莞爾:
日満経済ブロックに閉じこもり、どんなに挑発されようが大戦争はやらない
*『戦陣訓』の陰の執筆者で東条英機のブレーン役の中柴末純:
やる前から負けるとは言えないから、精神力で勝ててしまえることにしよう
いずれにせよ、米英のような「持てる国」に対して「持たざる国」である日本が戦争を挑めば必ず負ける。そう表立って言うわけにはいかない。火力・火砲で制圧するという装備戦力重視の戦術論は主張できないので、表向きは短期決戦・包囲殲滅や歩兵の練度・精神力で勝機をつかむ戦術論をひたすら押し通したというわけです。
そうした「皇道派」を一掃した「統制派」は、「持てる国」を目指して国家総動員体制によって経済力で米英に追いつこうという遠大な国家数十年の計を描いた。満州の資源と市場に霊感を得た石原莞爾がその代表だったというわけです。「統制」は、軍制の統制ばかりではなく、暗にソ連の計画経済をモデルとした統制経済の構築も目指していた。これが革新官僚たちに継承されて戦後の高成長を実現したというわけです。
しかし、そうした精神主義は誇大妄想となって世界を敵に回す大戦争に踏み込んでしまう。確かに真珠湾や南方作戦など当初の短期決戦には勝利し、死を恐れぬ日本軍兵士の突進力は恐れられたが、米軍は圧倒的な物量で確実に押し返していく。バンザイを叫んで突進してくる痩せこけた猿の群れは、銃口の先の格好の標的となって滅多打ちにされる…少なくともそういうキャンペーンが米国内で流布された。
大正期のエリート軍人が日露戦争を見る目は実に醒めていて、兵士を犠牲にするばかりの攻略は、「持たざる国」だからやむを得なかっただけであって、あんな時代遅れの戦争はもう二度とやれないと考えていた。その一方で、大国ロシア陸軍を相手に勝利した小国・日本の奮闘を見た欧米各国が、一時は本気で精神主義の歩兵戦重視に傾いたという指摘は興味深い。英独仏の軍事大国といえども、《寡を以って衆を制す》的な短期決戦・包囲殲滅戦への魅力に血湧き肉躍るものがあって、大いに勘違いしてしまうところがあったというわけです。
昭和史とかアジア・太平洋戦争の政治史としては、むしろ、トンデモ本なのかもしれませんが、軍事オタクにとってはたまらなく面白く、思わずフンフンとのめり込んでしまうオブナイ本と言えるでしょう。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命
片山 杜秀 (著)
新潮選書
エリート軍人たちは、始めから米英と戦争すれば国家滅亡に至ると知っていた。けれども、軍人の分をわきまえれば「負ける」「戦わない」と表立っては言えない。本音は負けるとわかっていても、表向きは勝てると言っていただけ…というのです。
*『統帥綱領』『戦闘綱要』を執筆した小畑敏四郎:
なるべく短期で決着する戦争をすればいい、それ以外は負けるからやれない
*満州事変を引き起こした張本人の石原莞爾:
日満経済ブロックに閉じこもり、どんなに挑発されようが大戦争はやらない
*『戦陣訓』の陰の執筆者で東条英機のブレーン役の中柴末純:
やる前から負けるとは言えないから、精神力で勝ててしまえることにしよう
いずれにせよ、米英のような「持てる国」に対して「持たざる国」である日本が戦争を挑めば必ず負ける。そう表立って言うわけにはいかない。火力・火砲で制圧するという装備戦力重視の戦術論は主張できないので、表向きは短期決戦・包囲殲滅や歩兵の練度・精神力で勝機をつかむ戦術論をひたすら押し通したというわけです。
そうした「皇道派」を一掃した「統制派」は、「持てる国」を目指して国家総動員体制によって経済力で米英に追いつこうという遠大な国家数十年の計を描いた。満州の資源と市場に霊感を得た石原莞爾がその代表だったというわけです。「統制」は、軍制の統制ばかりではなく、暗にソ連の計画経済をモデルとした統制経済の構築も目指していた。これが革新官僚たちに継承されて戦後の高成長を実現したというわけです。
しかし、そうした精神主義は誇大妄想となって世界を敵に回す大戦争に踏み込んでしまう。確かに真珠湾や南方作戦など当初の短期決戦には勝利し、死を恐れぬ日本軍兵士の突進力は恐れられたが、米軍は圧倒的な物量で確実に押し返していく。バンザイを叫んで突進してくる痩せこけた猿の群れは、銃口の先の格好の標的となって滅多打ちにされる…少なくともそういうキャンペーンが米国内で流布された。
大正期のエリート軍人が日露戦争を見る目は実に醒めていて、兵士を犠牲にするばかりの攻略は、「持たざる国」だからやむを得なかっただけであって、あんな時代遅れの戦争はもう二度とやれないと考えていた。その一方で、大国ロシア陸軍を相手に勝利した小国・日本の奮闘を見た欧米各国が、一時は本気で精神主義の歩兵戦重視に傾いたという指摘は興味深い。英独仏の軍事大国といえども、《寡を以って衆を制す》的な短期決戦・包囲殲滅戦への魅力に血湧き肉躍るものがあって、大いに勘違いしてしまうところがあったというわけです。
昭和史とかアジア・太平洋戦争の政治史としては、むしろ、トンデモ本なのかもしれませんが、軍事オタクにとってはたまらなく面白く、思わずフンフンとのめり込んでしまうオブナイ本と言えるでしょう。
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命
片山 杜秀 (著)
新潮選書
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