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「戒厳」(四方田犬彦 著)読了 [読書]

大学を卒業したばかりの主人公の瀬能は、ひょんなことから日本語教師として韓国・ソウルの大学に赴任する。そうやって考えもしなかった韓国社会に放り込まれ、自分と歳の違わない学生たちと濃厚な日々を過ごす。半年が過ぎ、ようやくかたことの会話はできるようになり、ハングルも街の看板ぐらいは読めるようになってきた瀬能は、突然のように朴正煕大統領暗殺という大事件に遭遇する。戒厳令下のソウルをあてどもなくさまよい歩いた瀬能が見たり感じたりしたことは…。

これは瀬能の「回想(メモワール)」だが、著者自身のそれでもある。記憶や感慨は時を経るにつれて過熱し冷却されて変成していく。些末なことで記述の真偽正誤に煩わされたくないだろうし、関係者を実名で記述することも厭われる。そういうことでフィクションの体裁をとったのだろう。けれども、これは作者の生の実体験であることに間違いない。

ここで描かれる韓国社会は、今の若い世代からすれば隔絶の観があるだろう。「1980年代の韓国はめまぐるしく変貌した。一つの事件に驚いていると、次にそれを転覆させる事件が起きるといった風」だったからだ。政治の担い手も、保守・革新の立ち位置も、「民主化」の意味も、若者の感性も、それこそ白と黒とが入れ替わるほどに違う。

それを承知で作者は、自分の記憶と感慨を回想として掘り起こす。そこには、時の経過が断層崖面のようにくっきりと現れている。その地質と地質の断絶と反転は、韓国という社会の変貌というだけではなく、そこには韓国社会の根深い二重性がむき出しになっている。それはまた、日韓関係に執拗につきまとう二重性や意識の断絶とか矛盾のようなものをも映し出している。だからこそ、作者はあえていま「回想」している。

主人公の瀬能が教える学生がポツリと言う。これほど忌み嫌う軍事独裁の朴正煕だけれども、その朴のおかげで日本語教育が始まった。その日本語教育を受ければ、就職のあてのないはずの女子の大学卒だって中学・高校の日本語教師になれる。男子学生だって就職は狭き門で難しい。日本語を学べば日本企業など就職にも少しは有利になる…と。

エピローグでは、瀬能(作者自身)が、後年、韓国を再訪し、池明観(チ・ミョングァン)を訪ねたことが語られる。池とは、かつて雑誌『世界』に連載された『韓国からの通信』で朴の強圧独裁政治をこう然と批判し続けた「T・K生」その人のこと。池は帰国して、かつての国内民主化運動家たちとの不幸な齟齬に直面する。独裁の下にとどまりあらゆる恐怖に耐えた人士たちに対して、安全地帯にとどまり続けたことへの罪障意識にも苦しんだ。

「もう昔の友情とか信頼そいうものがなくなってしまったのです」「わたしが東アジア全域の未来について考えようと提言しても、彼らはナショナリズムに凝り固まってしまい、韓国と日本とを対立関係の下にしか認識しようとしなくなってしまった」

そう嘆いた池は、「でもね、」と別れ際に付言する。「いいこともあったのです」と。

「わたしの書いた『通信』を読みたいという理由だけから、何人かの学生が獄中で日本語を学ぶことを決意したと、後でいってくれたのです。」

二重三重、幾層にも反転、ねじ曲げられて折り重なる地層は、いつか逆転して隠れていた下の地層が現れる。地層と地層の間には、年月をかけて磨かれようやく地表に現れる伏流水も流れている。それが日韓の歴史だということではないだろうか。

著者の真摯な気持ちがこめられた渾身の書だと思う。


戒厳_1.jpg

戒厳
四方田 犬彦 (著)
講談社

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