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「樋口一葉赤貧日記」(伊藤 氏貴 著)読了 [読書]

2004年以来、20年にわたっておなじみだった5千円札の樋口一葉の肖像。来年から津田梅子にとって代わられるという。

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その一葉の短い生涯はとにかく貧乏で借金まみれだったというから何とも皮肉なことだ。「一葉」という筆名は、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡ったとされる達磨大師の故事にならったという。つまり、「お足(銭)がない」ということ。川面に浮かび流される落ち葉のごとくはかない人生だった。

一葉の赤貧ぶりは、もともとよく知れ渡っていた話しだ。「一葉日記」には、そういう窮乏と借金の経緯が詳述されている。死後の発刊であり、実名をあげての容赦ない本音の記述はプライバシーの機微にも触れるだけに何かと取り沙汰された日記だが、本書は、徹底的に金銭貸借の実態を追って、一葉の文学的成長と明治の世相を映し出そうという試み。

何でもかんでも金銭に換算し、夭折の作家の貧乏まみれの軌跡を読み取ろうという試みは「一葉日記」の解読としては一面的だと思わないでもないが、そこはともかく、ここは一葉の赤貧ぶりに大いに呆れるしかないのかもしれない。そこは、読んでいて歯がゆいばかりだが、実のところ、ともかく面白い。

章ごとに年表を整理してあることもわかりやすい。「日記」を読み解く研究書、評伝の類いは、巻末の《参考文献》に挙げられているように良書が多いが、無教養な私たちにはいまひとハードルが高い。こうやって時系列的に簡便に見通せることができるのはありがたい。

とにかく金銭感覚に置き換えることが、本書の真骨頂。

巡査の初任給とか、かけそばの値段とかで、いちいち現在価値に置き換えることをいとわない。そういうところはテレビに人気番組《有吉のお金発見 突撃!カネオくん》みたいで、文学論にしては俗っぽいのかもしれないが、こうも堂々とやられるとそれなりの説得力も持つ。維新当初はかけ離れていた労働賃金のような「生産価値」と、いわゆる物価に相当する「消費価値」とが、年とともに次第に一致していくのも面白い。

それにしても、一葉とその一家の困窮ぶりと金銭感覚とのちぐはぐさには呆れかえってしまう。明治政府が打ち出した「秩禄処分」というものがいかに急進的かつ苛烈なものだったかを実感できる。もともと士分を金で買い取った樋口家は決して貧乏ではなかった。幼少時代の一葉の家族は、現在の東大赤門の真向かいの広大な屋敷に住み、頼母子講を営むほどで羽振りはよかった。支配層であるはずだった士族が一気に定収入という既得権を失ってしまう。そのどさくさの成り上がりと没落の果てに遺されたのは《士族》というプライドのみ。

そういうギャップが生んだものが、借金と日銭の浪費を繰り返す一葉一家の暮らしぶりだったというわけだ。訪問した客に鰻を馳走し、その足で追いかけるようにして借金の懇請をする。着物を質入れしたその日に、姉妹で寄席にでかけて女浄瑠璃に興ずる。そういうことの繰り返し。

それは同時に、日本の社会が地縁、血縁による互助というセーフティネットが崩れていく過程でもあり、一方でそれに取って代わるべき金融メカニズムが未整備だっとというギャップがあったからなのだろう。筆者は、『縁から円へ』と言うが、一葉の時代はまだまだ円が手につかなかった。借金を借金で返すというやり繰りや質屋通いのタケノコ生活のあげくに丸裸になっていくという下層士族の生活は、お江戸の時代を引きずったままだった。

筆者は、『古典に毒されすぎていた』と一葉を断ずる。あの《奇跡の十四ヶ月》と呼ばれる最晩年の傑作は、吉原近くで小間物屋を営んだ数ヶ月の間に社会の底辺のリアリティに触れたからこそだという。確かに説得力はあるが、その言説はどこか味気ない。




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樋口一葉赤貧日記
伊藤 氏貴 (著)
中央公論新社
2022年11月25日初版


















「樋口一葉赤貧日記」(伊藤 氏貴 著)読了


2004年以来、20年にわたっておなじみだった5千円札の樋口一葉の肖像。来年から津田梅子にとって変わられるという。

「一葉」という筆名は、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡ったとされる達磨大師の故事にならったという。つまり、「お足(銭)がない」ということ。一葉の短い生涯はとにかく貧乏で借金まみれだった。

一葉の赤貧ぶりは、閨秀作家として名を成したと同時に世間に知れ渡っていた話しだ。その夭逝後に発刊された「日記」には、そういう窮乏と借金の経緯が詳述されている。死後の発刊であり、生活の周辺と交友などプライバシーの機微にも触れる日記だけに何かと取り沙汰された日記だが、本書は、徹底的に金銭貸借の実態を追って、一葉の文学的成長と明治の世相を映し出そうという試み。

当時の貨幣価値を巡査の初任給とか、かけそばの値段とかで、現在価値に置き換えることをしきりに記述する。そういうところはテレビに人気番組《有吉のお金発見 突撃!カネオくん》みたいで、文学論にしては一見味気ないようだが、こうも堂々とやられるとそれなりの説得力も持つ。維新当初は、かけ離れていた労働賃金のような「生産価値」と、いわゆる物価に相当する「消費価値」とが、明治の経済社会の成熟とともに次第に一致していくのも面白い。

章ごとに年表を整理してあることもわかりやすい。「日記」を読み解く研究書、評伝の類いは、巻末の《参考文献》に挙げられているようにいくらでもあるが、こうやって時系列的に一葉の短い生涯の事象を整理してくれることはとてもわかりやすい。

それにしても、一葉とその一家の困窮ぶりと金銭感覚とのちぐはぐさには呆れかえってしまう。そこには「秩禄処分」というものがいかに急進的な改革で衝撃的なものだったかがわかる。支配層であるはずだった士族が一気に定収入という既得権を失ってしまう。遺されたのは《士族》というプライドのみ。空虚なプライドと無収入というギャップが生んだものが、借金と日銭の浪費を繰り返す一葉一家の暮らしぶり。

それは同時に、日本の社会が地縁、血縁による互助というセーフティネットが崩れていく過程でもあり、一方でそれに取って代わるべき金融メカニズムが未だ整備普及の中途にあったというギャップがあったということなのだろう。筆者は、『縁から円へ』と言うが、円の方がまだ未成熟だった。庶民が銀行に預金するということはまだあり得なかったし、質屋通いのタケノコ生活のあげくに丸裸になっていくというのは、お江戸のままだった。

筆者は、『一葉の恋愛は古典に毒されすぎていた』と断ずる。あの《奇跡の十四ヶ月》と呼ばれる最晩年の傑作は、糊口をしのぐため吉原近くで小間物屋を開き社会の最下層に沈潜しリアリティのある題材を得たからこそ成り立ったという。近代文学のリアリズムは、花鳥風月の古典教養から脱した私小説でこそ成り立つと言わんばかりの言説は、確かに説得力はあるが、どこか味気ない。「一葉日記」の解読としては一面的だと思わないでもないが、そこはともかく、ここは一葉の赤貧ぶりに大いに呆れ、面白がるしかないのかもしれない。



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樋口一葉赤貧日記
伊藤 氏貴 (著)
中央公論新社
2022年11月25日初版
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