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「壬申の乱」(遠山美都男 著)再読 [読書]

王位継承をめぐっての古代史上最大の内乱。この乱は古代国家を完成に導いた画期的な事件と言われる。王位継承をめぐる争乱に終止符が打たれるのは持統朝まで持ち越されはするものの、天皇親政と律令国家が天武朝のもとに完成されていく。

その大乱の経緯を時系列的にドキュメンタリー風にたどった書。

25年ほど前に読んだ本ですが、天智朝をめぐる古代史を見直しているなかで再読してみました。歴史解釈というのは、なかなか定まりにくいものですが、史料に乏しい古代史ではなおのこと。そういうことをさておいてみて、「書紀」の記述から人物や戦乱の経緯をたどることはとても新鮮でした。

壬申の乱というものにはいくつかのターニングポイントがあります。史実はどうなのかとか、「書紀」は勝利者側が都合の良いように改ざんしたものだとかの歴史解釈を抜きにしてポイントのみをあげてみます。

1.内乱の発生
 これは、先に仕掛けたのはどちらか?という歴史解釈になってしまいがちだが、戦略論上も重要なポイント。

2.伊賀越え
 ほぼ丸裸の状態だった大海人皇子が伊賀を抜けて虎口を脱した。これを著者は、天王寺の変直後の家康の伊賀越えに例えている。伊賀は大友皇子の実母の出生地だから敵地そのもの。そこを無事に駆け抜けたということも家康のそれと相似させる。

3.高市皇子の近江大津宮脱出
 高市皇子は大海人皇子の実子。乱勃発時には近江大津宮の大友皇子陣営にいて軍議にも参加している。それが軍議の後にやすやすと手勢を率いて出奔し大海人皇子のもとに馳せ参じた。高市皇子は、全軍を総覧する立場を委ねられ大海人の勝利に多大な貢献をすることになる。

4.美濃・尾張の軍勢の掌握
 大海人側は、尾張で徴兵された2万の軍勢を麾下に編入することに成功する。もともと天智天皇山稜造営のために徴発されたものだから大海人軍による押収といえる。地方豪族の手兵に依存するのではなく、天智朝で実現した庚午年籍により中央権力による徴発が現実に機能したが、それを大海人側が横取りしたというわけだ。

5.倭古宮(旧・飛鳥京)の奪取
 大伴吹負は多分に猪突猛進のところがあったが僥倖もあって倭京を奪取。さらに幸運が続き近江軍の撃退にも成功し完全に奈良盆地を制圧し、その後、一度も近江側にこの地を渡すことがなかった。近江側は、東西交通の重要な要衝を失い、大和朝の伝統的な行政機能も喪失してしまう。


上記のなかでも4.が最大のポイントだったと思います。これで一気に軍事バランスが対等になってしまったからです。それだけ庚午年籍は画期的なものでした。もともとは律令国家を目指した天智朝の大きな一歩だったわけですし、白村江の敗北によって西国が疲弊し空白化していたなかで東国に温存された国力を徴用し国軍として運用するうえでのカギでしたから、それが結果として内乱において発動され、しかもそれが反乱軍を利することになったというのは皮肉でした。

歴史解釈については、著者の考えを聞くのもよし、あるいは批判的に読むのもよし、それは読者次第だと思います。時系列的に整理されて記紀からの現代訳抜粋を掲げていて歴史読み物としても面白く、年表や人物一覧も巻末にあって充実しています。

古代国家の歴史を知る上で、その最大の事件をつぶさに知る入門書としていまだに価値を失っていない名著です。


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壬申の乱
天皇誕生の神話と史実
遠山美都男 著
中公新書
タグ:遠山美都男
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