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「天智伝」(中西 進 著)再読 [読書]

まさに激動の時代に生き、その生涯は血なまぐさい陰謀と殺戮に彩られ、民衆の誹謗にさらされ続けた一方で、叡智英明の王ともたたえられる天智天皇。その人間像に迫る評伝。

著されたのは今から50年前のこと。

古代史には謎が多く、書紀の記述にも矛盾が多く、その足跡にも諸説が交錯する。著者の中西進は、今では「令和」の考案者として知られる。その出典が万葉集であったことが話題となったが、中西は万葉集の研究者であって歴史学者ではない。そういう著者が、丹念に記紀をたどりつつも歴史解釈に拘泥することなく万葉の詩情を汲み上げながら人間味に溢れた天智像を描いている。

天智天皇の時代は、まさに内憂外患。むしろ、国際的には危機的な状況にあったと言ってもよい。

隣接する朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国が興亡をかけた戦乱の渦中にあった。中国と高句麗は、長年、遼東でせめぎ合いを繰り広げてきたが、やがて中華帝国は支配拡張の野心を隠さないようになった。遼東南方の百済を支配下に置き軍事支配の根拠としようと企てる。常に他の二国から圧迫される立場にあった新羅は、ようやく半島南部を平定し、その中国と結び百済を滅ぼそうとする。

日本は、華北、山東への海路にあたる百済と長く親交を結び、先端の文化、知識、技術を導入し多くの渡来人を迎え入れていた。そこから得た知識から新たな国家の理想像が芽生えていく。経済的にも軍事的にも中央集権化をはかる必要があり、従来の有力豪族の合議制から脱して、確固たる王権の法的な支配のもとに有能な人材を登用し官僚国家を確立する――すなわち律令体制の実現こそが国家的課題だという覚醒が生まれる。

若き中大兄皇子は、そうした理想に燃え、中臣鎌足に共感し手を組み、まず、蘇我蝦夷・入鹿の父子を誅殺し蘇我氏の専横を排除した。鎌足の助言に従い、あえて王位にはつかず実権を掌握し続けたが、改革は遅々として進まなかった。鎌足も内大臣にとどまり、二人は一歩下がった地位のまま王統主導で改革を進めようとするが、その間も血なまぐさい陰謀、殺戮は続いた。

中大兄皇子は、そういう鬱屈にさいなまれ続ける憂愁の皇子。

盟友であるはずの鎌足に対しても、その冷徹な姿勢に時として畏怖の念を抱き、常に孤独であり続けた。その皇子が、あえて鎌足の冷視を押し切って進めたのが百済救済の援軍派遣だった。長年、人質として日本に滞在し親交も深めてきた百済の太子・豊璋を帰還させ百済再興をはかるという正義に皇子は高揚を覚える。

しかし、そこまでして進めた百済再興の救援は、白村江で壊滅的な大敗に帰する。

この敗北と、その後の危ういまでのバランス外交は、さらに中大兄を苦しめたに違いない。そういう苦境のなかで曖昧な形で王位につかざるを得なかったというのは天智天皇をさらに追い詰めていったのだろう。唐からは強圧的な軍使がたびたび来訪し、北方の高句麗攻略に組みする新羅は後背をつかれたくないために唐の威圧を利用しながら善隣友好を求めてくる。もちろん高句麗も援助を求めてくる。天智帝の晩年は、そのいずれにも莫大な貢物を差し出して軟弱友好を装わざるを得なかった。白村江で主力が壊滅した西国は、軍事的にも統治的にもほぼ丸裸だったからだ。

天智天皇は、そういう憂愁の皇子だった。

50年前に本書を読んだときは、日本の古代史にこれほどの朝鮮との関わりがあったことに驚いたという記憶があります。50年たった今、再読してみると、改めて現代の国際政治の現状との相似におののくばかりです。


天智伝_1.jpg

天智伝
中西 進 著
中公叢書
(昭和50年6月20日初版 昭和51年2月5日3版)

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