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「天智朝と東アジア」(中村修也 著)読了 [読書]

中西進「天智伝」再読にあたって、副読本的に読んでみた。

天智朝の時代の東アジアの国際情勢を平明に概説した教養書との期待だったのですが、内容は著しく偏った視点のもので驚いた。

その主張は、すなわち、白村江の敗北以後の古代日本は、唐軍の進駐を受けて「占領統治下」にあったというもの。

『日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐と友好関係を保ち、唐の律令を導入して国力の充実をはかった』というのが定説だとして、そういう従来の定説は、敗戦と占領という歴史事実を認めようとしない「書紀」の隠蔽であり、その書紀を盲信する日本の歴史家の不明だとぶった斬る。

トンデモ本だとまでは言わないし、新たな視点で歴史を読み直してみるという姿勢は歴史研究者のみならず必要なことだとは思うけれど、史書の読解解釈の新説というにはあまりに飛躍が過ぎた仮説で科学的な論証や考証に欠ける。

従来の定説は「戦争の常識を覆す論理である。戦勝国が敗戦国になにも要求しないということがまかりとおるという論」だ、と切り捨てるが、終始一貫、こういう思い込みのみを論理に据えている。敗戦の歴史を受けとめようとしないのは戦後の日本と同じだと訓を垂れる。

本書の根幹を成す「朝鮮式山城」についての考証も、著者の主観に終始する。遺跡を見て回っても、迎撃的な構造になっていないという印象論だけであって確たる根拠がない。防衛強化のための築城だったという定説を否定して、駐留・占領行政の施設だという。築城に当たったのが百済の遺臣たちであり天智朝で官職を得て厚遇された渡来人であっても、それは史書の粉飾に過ぎないというだけ。それでは説得力もない。

天智紀末期に、二千人余りを引き連れて来日した郭務?こそ駐留軍の現地リーダーだという。遼東および半島で中国王朝がとった羈縻政策(異民族国家を軍事的職制による従属統制下に置くこと)を敗戦国・日本に対して行ったというが、これもすぐには納得しがたい。二千人の駐留で十分という断定もあまりに説得力がない。

実際には、朝鮮半島においてさえ中国王朝の軍事支配は一時的、名目的なもので、高句麗滅亡後は、統一を果たした新羅が、一転して唐に反攻を開始して、その軍事力を一掃する。以後は冊封体制へと移行していくことになるわけだ。

著者は、そういう時代の軍事のリアリティをひとつも検証していない。従来の定説における記紀の記述解釈の矛盾を指摘するが、著者の反論もそういう同じ土俵の上から一歩も外へ出ないまま想像力をたくましくしているのみ。当時の朝鮮には、別の記述があるのかどうか、朝鮮式山城に果たして日本のものと違った迎撃タイプの城があったのか、朝鮮における羈縻支配は具体的にどうだったのか…そういう新たなエビデンスが何もない。

あとがきで『恥ずかしながら、ハングル・中国語に明るくない筆者はそれら(朝鮮史料・中国史料)を参照して利用することができなかった』とあるが、そのことに尽きるのだと思う。そういう残念な現実は、主に戦後の国際政治がもたらしたものとはいえ、東アジアの古代史を論ずる学術の世界に各国互いに共通して内在する《恥ずべき》未熟さなのだと思う。




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天智朝と東アジア
唐の支配から律令国家へ
中村修也
NHKブックス
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