SSブログ

「渾沌の恋人(ラマン)」(恩田 侑布子 著) [読書]

斬新にして卓抜たる芸術評論・日本文化論。


著者は俳人。十七音の芸術表現の視点から、北斎、浮世絵、絵巻、茶の湯、能、和歌、万葉と日本の美意識の深遠を逍遙し、果ては詩経をはじめとする中国古代の詩論に踏み入った探索は、その源泉にまでに及ぶ。

筆致は、自由。だから批評とか芸術論というよりもエッセイというべきだろうか。視点は自在で、何にも囚われない。

郷里・静岡の山深い里の古民家をわび住まいとし、都内港区のマンションとを毎週のように行き来して美術館をめぐったという。そういう美意識、自然観は、書斎から発する教養ぶった評論、批評とは次元を劃している。

何より衝撃だったのは、その日本語の美しさ、豊かさ。言葉が本来持っている想起力の強さ、鋭さ。その音韻のしなやかさ、あるいは切れのすがすがしさ。著者が繰り出す語彙の豊穣は驚くばかりで、名人の一手のごとくぱしりと急所に置かれると、思わずはっと息をのむ。そういう文章は、枯れ果てた日本語の倒木から更新する若い枝葉のように清新に感じる。

穏やかなもの言いのようでいて、その舌鋒は鋭く、あっと驚くような厳しい転換がある。

劈頭の「芭蕉の恋」では、句界の大御所や審美家たちの句評「浪漫的な叙情」「艶美な恋句」「朝絵巻のひとこまのように優美」といった美辞麗句を引用して、「こんなそつのない予定調和の恋にトキメクのだろうか」と一刀両断。芭蕉の恋は、実は、女人ではなく衆道の相手である杜国であったと、あっという間もなく鋭く切り返してしまう。その途端に、この書のとんでもない重たさに気づいて凜然とする。

こういう鋭く容赦のない切り込みは、後からあとへと続く。金子兜太の「俳句はアニミズム」というキャッチをこきおろすにも何の躊躇もない。なぜ、いまごろ19世紀末の西洋的進歩史観で見下したアニミズム=未開宗教という決めつけを援用するのか、というわけだ。そういうことは、今や急速に失われようとしている日本古来の美しい自然と生活意識、そこで育まれてきた美意識…への痛切な愛惜なのだろう。

出色の「日本美」論であり、声に出して朗読したいという衝動にかられる卓筆でもある。



渾沌の恋人.jpg

渾沌の恋人(ラマン): 北斎の波、芭蕉の興
恩田 侑布子 (著)
春秋社
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ: