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日下紗矢子リーダーによる室内合奏団 (読響アンサンブル・シリーズ) [コンサート]

読響のアンサンブル・シリーズ。
今シーズンから会場を多目的ホールの読売ホールから、コンサート専用のトッパンホールに移しての公演です。
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日下紗矢子さんがリーダーとなっての室内合奏団。今回のテーマは、とても明快。ずばり、チェコの音楽。
チェコといえば「弦楽のチェコ」。
前半は、ビーバーの音楽。なるほどビーバーは、チェコの生まれだったか。しかも、ヴァイオリンの名手で、バッハに先駆けて無伴奏のヴァイオリン曲というジャンルに金字塔を打ち立てたひと。
〈パッサカリア〉を含む「ロザリオソナタ」が余りに有名ですが、そのほかの曲は滅多に演奏されません。チェンバロやリュートを含む通奏低音と組み合わせた様々な編成での合奏曲はほとんどが初めて聴く曲ばかりでした。
バロック音楽といえば、典雅なメロディと端麗な響きというイメージがありますが、ビーバーの合奏曲は、むしろ、野趣に富んでいて遊び心がいっぱい。ところどころに現代音楽さながらの微分音や、あえて調子外れのパニックがあったりと冗談音楽の先駆けみたいなところもあってびっくり。
「描写的なソナタ」は、以前にFM放送で紹介されていたことがあって聴き覚えがありましたが、ヴィヴァルディも超えた鳥やカエルなどのものまねのオンパレード。猫の鳴き真似などはネコ好きにはたまらないでしょう。そうやって楽しませておいて、すぐに済ました顔で元の典雅な音楽に戻るという仕掛けです。
大いに受けたのは、前半最後の「夜の見張りの歌」。セレナータ(夜曲)と夜警をひっかけたというわけでしょうか、途中で「夜警の歌」が入ります。「夜警」というのは、ちょっと日本人にはなじみにくい言葉ですが、「夜回り」みたいな意味で江戸時代の拍子木を叩いて夜を見回る町の自警の「火の用心」に近いようです。今でもヨーロッパの古い町では観光半分で残っているそうです。
そういう節をつけた掛け声みたいな歌が、「チャコーナ」でピチカートの伴奏にのって歌われる。その歌をなんとコントラバスの瀬泰幸さんが歌い出す。なんとも微笑ましいのですが、ドイツ留学で身につけたドイツ語と本業の合間に通った声楽やボイストレーニングの成果を披露せよとのご指名に、ご本人もいささか緊張したのだとか。
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後半は、打って変わって19世紀、20世紀の弦楽合奏曲。
マルティヌーは、ちょっとわかりにくい音楽ということでなじみは薄いのですが、前半のビーバーの奔放な音楽を聴かされた後だと、不思議なほどに作曲技巧の面白みがすんなりと胸に響いてきて面白く聴けます。和声やリズムに弦楽器ならではの奔放な掛け合いがあって楽しいのです。
そのことは雰囲気こそ違え、ヤナーチェクも同じ。ちょっとしたリズムの肩透かしや、取り澄ましたような正統音楽に民俗音楽の野趣を忍ばせてみたり、ドゥムカとかアルペン踊りのステップをかましたり。弦楽器ならではの奔放な音型で大いに盛り上がるところもマルティヌーと同じ。
チェコというのは、まさにヨーロッパの中心だったということを大いに実感する楽しいひとときとなりました。
読響アンサンブル・シリーズ
第341回 《日下紗矢子リーダーによる室内合奏団》
2022年7月31日(日) 18:00~
トッパンホール
(P6列 12番)
ヴァイオリン=日下紗矢子(特別客演コンサートマスター)
瀧村依里(首席)、岸本萌乃加(次席)、大澤理菜子、太田博子、小田透、鎌田成光、川口尭史、武田桃子、山田耕司
ヴィオラ=柳瀬省太(ソロ・ヴィオラ)、正田響子、長倉寛
チェロ=遠藤真理(ソロ・チェロ)、木村隆哉、唐沢安岐奈
コントラバス=瀬泰幸、石川浩之
チェンバロ=大井駿
リュート=野入志津子
ビーバー:楽しいソナタ
ビーバー:ヴァイオリン・ソナタ「描写的なソナタ」
ビーバー:セレナータ「夜の見張りの歌」
マルティヌー:弦楽のためのパルティータ H.212
ヤナーチェク:弦楽のための牧歌
(アンコール)
ビーバー:バッターリア


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「政治少年死す(「セヴンティーン」第二部)」(大江健三郎 著)読了 [読書]

浅沼稲次郎社会党党首(当時)が、右翼少年によって刺殺された直後に「文學界」で発表されて以来、再刊されることのなかった小説。
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右翼から脅迫された出版社は謝罪文を掲載し、以後は数十年にわたり書籍化されることもなく、図書館でも当該号が欠番となっていたり頁が引きちぎられていたりと、目を通す機会さえ奪われた。
再刊のきっかけはドイツだった。
ベルリン自由大学の修士課程の院生が、原作とそのドイツ語訳を主要部分とする修士論文を提出した。それが掲載された論文集を出版するにあたり、大江健三郎に許可を求めたところ意外にもあっさりと許可が出る。それを基に校正されたドイツ語訳文が刊行され、ドイツ語圏では、「55年後の大発見!」と、直ちに大きな反響を呼んだ。禁断の書は、ドイツの日本研究から再び光を浴びることになったという訳だ。
既読の「セヴンティーン」から読み返してみると、確かにこの二編はひと続きになっていて二部構成で中編小説を成している。
「セヴンティーン」の執筆時には、実は浅沼暗殺事件はまだ起きていなかった。大江は「オナニストからテロリストへ」という《少年の独白》の筋書きを執筆中に、想像が現実として的中してしまう衝撃に襲われたことになる。雑誌掲載の締め切りが、この小説を第一部と第二部に分けてしまったのだろう。
大江自身、この小説には強いこだわりがあったようだ。小説の最終章は衝撃的だが、それはそっくりそのままエッセイ集「厳粛な綱渡り」に詩文として引用されている。そのことに、当時の私はほとんど気がついていなかった。元の小説が禁書になっていたのだから仕方のないことだろう。
第二部の「政治少年死す」は、それだけに実際の事件をなぞるような外形的な性格を強めることになる。それがスキャンダルを呼び込むことにもなったし、第一部をそれなりに評価した江藤淳からは酷評されることにもなる。けれども実際に読んでみるとその独白は第一部よりもはるかに狂気の度を高めている。
ドイツで大きな反響を呼び、大江の初期作品に再評価の光が当てられたのは、不幸な若者らが超国家的な政治思想、一神教の教えに殉じていくというテロリズムの時代を予見していたと見るからだろう。しかも、そういう経脈は、まだ思想以前の、性の衝動につき動かされる青少年には当たり前のように備わっているものなのだ。
政治的には明らかに左派として振る舞ってきた大江がこの小説を書いた動機は不可思議かもしれない。しかし、大江には天皇を嘲弄する気は毛頭ないと証言している。非政治の小説への反映には、むしろ「超国家的」なものへの束縛がある。「超国家的」なものとは大江の場合、天皇制のことだと断定できる。それは、日本という国、国民が抱えている桎梏でもあると言える。
ドイツ人研究者たちが言うように、ノーベル賞作家・大江健三郎の初期作品は、今こそ読み返されるべきであって、その中にこの「セヴンティーン」二部作は必ず入るべきなのだろう。
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大江健三郎全小説 第3巻
講談社


タグ:大江健三郎
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優雅さのなかに隠された精励恪勤 (田中 渚 ハープ) [コンサート]

あらためてハープという楽器に魅了されました。
新人の登竜門である紀尾井ホールの「明日への扉」が初舞台というひとは、昨今、かえって珍しくなりましたが田中渚さんはこれがデビュー・リサイタル。
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深紅のドレスで現れた田中さんはとてもお美しい。やっぱりハープ奏者は美人でなければ…。ステージ上のお姿を見るとフライヤの写真よりもずっと大人びた印象です。オランダのマーストリヒト音楽院の修士課程に留学中とのことですが、精神的にも音楽的にも成長期の真っ盛りなんだと思います。これからがとっても楽しみ。
プログラムはほとんどが二十世紀まで活躍した作曲家の作品。ほぼ現代音楽と言ってもよいのですが、いわゆる前衛的なものは皆無で、ハープとしての魅せ所がいっぱいの王道、正統ともいってよい曲ばかり。しかも、楽器の魅力を効果的に引き出す表現や技法の粋を凝らしたものばかり。まるで国際コンクールの課題曲みたいな曲ばかりが続きます。優雅でありながら、とてもハードでタフ。
繊細ながらもあちらこちらに様々な意匠や演奏テクニックが隠されているようで、今の音はいったいどうやったのかと、あわてて単眼鏡を覗くのですが決定的瞬間には間に合いません。音楽こそ、ゆったりと優雅で流麗、少しも奇をてらったものではないのですが、飽くことがありません。あっという間に前半が終わってしまいました。
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後半は、シックな灰青色のドレス。長い裾に隠れて見えにくいのですが靴はまるでスニーカーのような編み上げの平底のシューズであることには変わりません。見かけの優雅さはあくまでも表向きで、指先から手のひら、腕、足元のダブルアクションのペダル操作などハーピストは大変に多忙でタフだということも実感させられます。
楽器は、柱がゴールドに飾られ、響胴には花柄の模様があって、とても美麗で豪華なもの。ライオン&ヒーリーの最新モデルだそうです。いかにもヨーロッパの歴史伝統の工芸品とも思えるこんな優雅な楽器がアメリカ中西部のシカゴで作られているというのはちょっと意外でした。
後半は、多少は名曲というのか親しみやすい曲が増えますが、それでも知っているのはファリャとフォーレぐらい。それでもハープのオリジナルとして聴いたことがあるのはフォーレぐらいです。最後のグノー「ファウスト」のテーマによる幻想曲は、壮麗で変化に富んだ15分もの大曲で圧倒されました。
アンコールのアナウンスでは、まだ息が弾んでいて「もう、へとへとなんですが…」と思わずボロリ(笑)。アンコールは、演奏はだいぶ楽な曲なのだそうですが、客席の私たちも静かにクールダウンするように癒やされました。
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紀尾井 明日への扉31
田中 渚(ハープ)
2022年7月28日(木) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 18列9番)
田中 渚(ハープ)
グランジャニー : コロラド・トレイル op.28
グランジャニー:ラプソディ
ダマーズ:シシリエンヌ・ヴァリエ
ウーディ:ハープ・ソナタ
マレスコッティ:ムーヴマン(ムーヴメント)
ゴドフロワ:ヴェニスの謝肉祭 op.184
ゴドフロワ:ヴェニスの謝肉祭 op.184
ファリャ:スパニッシュ・ダンス第1番
フォーレ:塔の中の王妃 op.110
ツァーベル:グノーの歌劇《ファウスト》の主題による幻想曲 op.12
(アンコール)
アルバート・ヘイ・マロット:《主の祈り》

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ミクロコスモス (ベルイマン邸訪問記) [オーディオ]

ベルイマン宅を訪問しました。


きっかけは、ある方面からの「素晴らしい音、素晴らしい3D音場」との絶賛の声を聞きつけたこと。


さっそくお願いして猛暑のなかをお時間いただき聴かせていただくことになりました。注目は、サラウンドならではの3D音場です。


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以前とは違って、部屋に入るにもバックパックはダメ、足元に気をつけて…と、あれこれ注文が多い。要するにアコースティック対策で、所狭しとケーブルが這いまわり、壁やドアから天井までのあらゆる壁面の突起物が尋常では無いほどに多い。あのうらやましいほどにお広いAV専用部屋が、もはや、広いとは思えないほど。


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そうやって恐る恐る入室したわけですが、聞こえてくるゴールドベルク変奏曲のチェンバロの音色にはっとさせられました。以前の印象からすると格段にSNが上がっているのです。まだ定位置に案内されて座る以前から、その印象が明らかなのです。音量は相変わらず大きめですが、それがスッと立ち上がり、静かに立ち下がる…!


これもあくまでも印象論なのですが、フロントスピーカーとの距離が近くなりリスポジとはかなり厳格な正三角形セッティングになりました。そう申し上げても、ご本人はそれほどには変更しているとは思われていないご様子。私の記憶もすこぶる曖昧でよくわかりません。


今までのソファーは取り払われ、リスポジには小学校の椅子のような小さなチェアが置いてあるだけ。椅子の変更はアコースティック対策かと思いましたが、それだけではなくリスポジがとても厳しくなりました。坐り方や姿勢、頭の向け方までこと細かいご指示をいただきました。実際に聴いてみると、姿勢や顔の向きひとつでがらりと変わってしまいます。厳格な正三角形セッティングとはそういうものだとつくづく実感させられます。


素晴らしいのは、被写界深度。


遠近感がとても深くて、フロントスピーカーの奥、スクリーンの後背にまで空間が突き抜けている。しかも、それぞれの音像のピントはぴたりとあっていて、とてもリアルな遠近感です。これほど大規模で大出力のシステムにもかかわらず、その精密さはまるでニアフィールドのようです。この3Dのスペースはちょっとした小宇宙。


いろいろとお聴かせいただきました。音量は以前ほどの爆音ではなくて、むしろ控えめ。しかもとても音量に気を遣っておられるようで、ディスクを掛け替えるたびにこと細かに調整されておられます。


しかし…


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ポッジャー&ブレコン・バロックによる「四季」。


彼女らの演奏については、以前、その音場や各楽器の立体的な分離がどうしてもしっくり来ないと言った(「音場と定位はなぜ大事か」)ことがあります。この「四季」も同じです。録音会場は違いますが、ロンドンの教会であることは共通しています。


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そういう広々とした空間が感じられず、前左右のスピーカー間にに凝集していごちゃごちゃしている。そのことはこの「四季」でも同じ。


2chステレオオンリーの私は、それがサラウンドでは違って聞こえるのではないかと思っていたのですが、そうではありませんでした。2chと変わらない。わざわざサラウンドにしても、同じようにフロントスピーカーの間に演奏者が密集して演奏している。それが、この素晴らしい再生クォリティーだと如実に聞こえてしまいます。


ことほど左様に、かけていただくソフトがことごとく私には不満なのです。



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ラトル&LSOの「春の祭典」。最初のファゴットの音からして気に入らない。音場感も乏しく空間が湿っぽく狭い。


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比較としてサロネン&LAフィルをかけていただきました。音色も明瞭でリアルだし解像度が高い。システムのSNが良いからこそ、そういう差がはっきりと聴き取れます。


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同じLSOライブとの比較。こちらも同じ会場、同じライブ録音なのに、会場のバービカンのクリスプな響きや空気感がしっかりと感じ取れます。何よりも横幅のあるステージが目に浮かび、サラウンドならではのホールトーンの3D感も格段に上だと感じます。


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聴かせていただいた、ある国内インディー系レーベルのベタなピアノにちょっとうんざりして、比較としてかけていただいた田部京子。舶来崇拝にとっては日本人ピアニストの国内録音などと、聴く以前から見下すところがあります。演奏も良いし、ピアノらしい音色と響き、立体感覚は明らかにこちらが上質。



それにしても、ことクラシックに限っては、2chとサラウンドでは聴感上のパースペクティブは全くと言ってよいほど違いがありません。録音再生の空間概念は同じ。そのことがよくわかります。もちろん録音によってリアがけっこう鳴っているケースもあるし、ほとんど聞こえないケースもあっていろいろです。それでも2chトラックとサラウンドとではパースペクティブは全く共通なのです。


サラウンドは、決してトリックではない。


そうであれば、もっとソフトの優劣が聞き分けられてくるはずです。ご自分のシステムのとてつもない進歩と、それによって鑑賞の次元、ステージが格段に上がっていることに気づかれていないのは他ならぬベルイマンさんご自身なのでしょう。それ以前のサウンド中心のこだわりから抜けていない。



帰宅後、自分のシステムで聴いてみると…


音の余韻とか静かなホールトーンが、スピーカー後方にしか拡がっていかない…。そのことがやけに耳についてしまいます。「こりゃあ、やられた。参った。」と思わず独り言してしまいました。

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コントラバス協奏曲 (池松 宏 紀尾井ホール管弦楽団定期) [コンサート]

この日の白眉は、なんと言っても池松 宏さんをソリストに押し出してのトゥビンのコントラバス協奏曲。
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オーケストラも、実は、この協奏曲が最大の編成。前後のシューマンやメンデルスゾーンはオーソドックスな2管編成ですが、この曲では、さらにトロンボーン3台、テューバが加わり小太鼓とハープも参加する。木管は2台ずつだけれどピッコロ、コーラングレ、バスクラリネット、コントラファゴットと持ち替えがあって、とにかく極彩色。
作曲者のトゥビンは、エストニア出身だが1944年に故国がソ連に占領されたためにスウェーデンに亡命。その後、生涯の大半をストックホルムで過ごす。この曲は、彼と同郷でベルリン・フィルを経てボストン響のコントラバス奏者を務めたルートヴィク・ユフトのために作曲されたそうです。
曲はとてもわかりやすい。かといって低音を強調したサーカスの曲芸のようなものではなくて、リズミカルでメロディたっぷりにコントラバスが歌ったり軽快に踊ったり。演奏はチェロのように座って抱きかかえて弾きます。極限といってもよいほどのハイポジションの連続。ソロ用は別の楽器を使用されていて、どうも先日の町田のサロンで使用していた楽器と同じようです。高域の音は甘く滑らかでチェロとはまた違った魅力。第2楽章ではハープ伴奏でしっとりと歌い、超絶のカデンツァ。第3楽章はとにかく華やかでユーモアたっぷり。あっという間の20分でした。
アンコールが、これまたハイポジションの歌を朗々と聴かせて秀逸でした。
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この日の紀尾井ホール管は、ちょっとした世代交代を感じさせます。特に管楽器がリフレッシュされていて鮮度が高い。そこにベテランの古部賢一さんのひなびたオーボエの音色が配剤されていていつもよりも彩色が鮮やか。トランペットの鮮烈さも格別でとにかく音程が良い。ホルンは、いつもの顔ぶれですが日橋辰朗さんを3番ホルンに据えてとにかくとても安定していてハーモニーが気持ちよい。
ただでさえオールスター・オーケストラが本領発揮という観があるのですが、マナコルダさんのリードに揺るぎないものがあって、団員にはすみずみまで曲のコンセプトが行き渡り、その上でひとりひとりが自由にやりたいように伸び伸びと演奏している。
気がつけば池松さんも加わっていて、コントラバスは3台、低音が気持ちよい。配置は、紀尾井では珍しい対向両翼型で、チェロは左、コントラバスは右。弦5部の響きがまんべんなく溶け合います。スコットランド交響曲は、ともすれば重く暗くなりがちなのですが、とても軽やかで明朗、メロディも流麗で、響きや色彩のバランスがとてもよい。この指揮者は、室内オーケストラというものをよく知っている。
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素晴らしい指揮者ですね。
暑い日が続いてぐったりしがちでしたが、久々にわくわくしました。
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紀尾井ホール室内管弦楽団 第131回定期演奏会
2022年7月232日(土) 14:00
東京・四谷 紀尾井ホール
(2階センター 2列13番)
アントネッロ・マナコルダ 指揮
池松 宏 コントラバス・ソロ
玉井 菜採 コンサートマスター
紀尾井ホール室内管弦楽団
シューマン:序曲、スケルツォとフィナーレ ホ長調 op.52
トゥビン:コントラバス協奏曲 ETW22[トゥビン没後40年記念]
(アンコール)
マイヤース:カヴァティーナ~映画「ディア・ハンター」より
メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調《スコットランド》op.56, MWV N 18

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「音楽嗜好症(ミュージコフィリア)」(オリヴァー サックス 著)読了 [読書]

音楽嗜好症というのは病的に音楽が好きだとか、並外れた天才性を発揮する人々のこと。
青天の霹靂のように音楽が好きになってしまったという突発性音楽嗜好症になってしまった同僚の医者の例は鮮烈だ。
避雷のショックによって失神しやけどを負うという事故の後、職場に回復してから突然のように音楽に対する渇望が始まる。さほど音楽に興味もなく楽譜も読めなかったのに、独学でピアノを習い、朝の四時に起きて仕事に行くまで弾いて、仕事から帰ってきたら夜通しピアノの前に座る。音楽に取り憑かれ、ほかのことをする時間がほとんど無くなってしまったという。
あるいは、ウィリアムズ症候群と呼ばれる認知障害を持つ人々は、知能に障害を持つにもかかわらずとても饒舌で社交的、なおかつ音楽に対して極めて敏感だという。
同じように、幼時に髄膜炎にかかった知的障害者の男性は、音楽に魅了され、耳にしたメロディを痙攣の障害のある手足と声の許すかぎり歌い、ピアノを弾く。驚異的な暗記力を持ち2千曲以上のオペラを暗記している。健常者ではほとんど活性化しない小脳や扁桃体など、はるかに広範の神経構造を使って音楽を知覚し反応していることもわかっているという。
著者は、神経学・精神医学の研究者。開業医として数多くの臨床経験も合わせ持っている。本書には、その中から音楽知覚に関連する豊富な事例が紹介されている。
音楽幻聴、音楽によって誘発されるてんかん症、失音楽症、極度の絶対音感の持ち主とそれとは対照的な音感の乱れを持つ蝸牛失音楽症など音楽をめぐる神経症や精神疾患の数々。あるいは、記憶喪失、運動障害やパーキンソン病、失語症などの他の病状に対して、音楽療法が驚くほどの効果をあげたという事例など。
そうした不可思議な事例から、人間の音楽知覚がとても本源的なものであり、五感や言語、文字などと同じように人間性にとってかけがえのない認知領域を持ち、相互にかかわり合っていると痛感させられる。音楽をどう認知しているのかということも、いわゆる楽典的な説明とは違う視点を与えてくれる。
晩年のラヴェルは、ブリック病とよばれる疾患に苦しめられた。意味失語症を発症し、象徴やシンボル、抽象概念、カテゴリーに対処できなくなり、もはや頭のなかにいぜんとしてあふれかえる音楽パターンや旋律を譜面にすることができなくなった。『ボレロ』を書いたときにはすでに認知症状が現れ始めていたのではないかという。音と楽器編成は大きくっていくが、単一の楽句が繰り返されるばかりで展開がない。そのことにかえって多くの健常者が熱狂させられるのはなんとも奇跡的な不可思議だとさえ思える。
左手のピアニストとして活躍したレオン・フライシャーは、局所性ジストニー(筋失調症)で右手の運動能力を失った。その原因は、脳内の感覚的な制御システムの障害なのだという。全速力で演奏する音楽家は奇跡だが、特異なもろさを秘めた奇跡であり、そのもろさが不測の結果を招くことがあるという。フライシャーが症状を引き起こした曲は、シューベルトの『さすらい人幻想曲』だったという。彼はそれを一日に8時間も9時間も練習していたのだという。彼はボツリヌス菌毒素をごく少量投与するという最新療法で、両手づかいのピアニストに復帰できた。筋肉がある程度弛緩し、混乱したフィードバックや運動プログラム異常を抑制できるようになったのだ。
第11章「生きたステレオ装置――なせ耳は二つあるのか」には、片耳の聴覚を失ったイギリスの音楽評論家の体験談が引用(*1)されている。立体音響を失うと、音楽の豊かさや、感動を呼ぶ響きも失われてしまったという。もっとも彼は毎日音楽を聴くようにして、三次元の立体感の回復(*2)に努力している。そして『両耳で聞こえるのがどういうものだったか、まだ記憶やイメージは残っている』という。
とにかく事例が豊富で、読み通すのも大変だが、そうした事例を通して「音楽」というものの人間的な本質が垣間見えてきて興味が尽きない。
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音楽嗜好症(ミュージコフィリア)
脳神経科医と音楽に憑かれた人々
オリヴァー サックス  (著)
大田 直子 (訳) 
早川書房
(*1)
『かりにも音楽好きな人なら、頭のなかに立体感のようなもの、面だけではなく量も表し、質感だけではなく被写界深度も感じさせる、そいういう次元があるのではないだろうか。…私はかつて音楽をきくときは必ず「建物」が聞こえていた…その建物が「見える」というより、感覚中枢で感じていた。…今音楽を聴いているときに聞こえるものは、平板な二次元の表象だ。…かつて建物だったものが、ただの設計図になっている。…技術的な図面に胸を打たれたことはない。…私はもはや音楽に感情で反応することがない。』
(*2)
『…片耳の聴力低下を補う方法をいろいろと見つけていた。場面を視覚と聴覚で交互に分析し、二つの知覚器官のインプットを融合しようとしている。…コンサートホールで頭を少しだけ回すことを憶えた。「バイオリンのときは左、低音と打楽器のときは右、というように、その瞬間に演奏されている楽器を見るみたいな感じにね」。触覚も視覚と同じように、音楽空間の感覚を再建するのに役立っていてた。ステレオのサブウーファーで試したところ、「自分が聴いている音には触覚で感じられる物理的な性質があって、それがよてもよくわかった」と彼は話している。』

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出川式21世紀電源が全開! (出川邸訪問記) [オーディオ]

久しぶりに出川さんのお宅を訪問しました。
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最新の21世紀電源搭載の真空管アンプを聴かせていただくため。
実はこのKT-90ppアンプは、Harubaruさんのアンプとほぼ同じもの。先日のHarubaru邸訪問では、もっぱらバベルにスポットライトが当たってしまい、あまりアンプの話題になりませんでした。そこで改めて本家本元の出川邸をお伺いしてみようということになりました。
まずは、21世紀電源搭載の有無の比較。
20世紀整流回路のSONY CDP-502ES。CD初期のリファランス機です。ふつうによい音がします。
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21世紀電源搭載のSONY CDP-555ESD。比較の502ESよりDACなどが強化されましたがほぼ同じ時代のCDP。その違いは歴然としています。とにかくSNが違う。《静か》というより、むしろ《うるさくない》。それでいてエネルギー感があります。
同じく21世紀電源DENON DCD-1650G Ltd.。90年代、いよいよCD全盛期を迎えた時代にロングランを続けた中堅普及モデルです。プロセッサのデジタル技術が一層洗練されDACはデュアルパラでアナログ部は差動増幅となっています。さすが名器と思わせるバランスですが、電源改造のおかげで中堅クラスとは思えぬ情報量。
同じ21世紀電源ですが、このDENON DCD-CS10 III。AL24Processing搭載の上位機種。いよいよ時代は21世紀を迎えます。上記と違うのは、クロック精度。1ppmクラスに対してこちらは0.01ppmという高精度。ちなみに私のGRANDIOSO K1のクロックは0.5ppmです。
クロックの違いは正直言ってあまり感じませんでした。とはいえ、新しい世代のCS10 IIIに一日の長はあります。以降、このCDPで再生ということに。
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本日の主役である21世紀電源KT-90ppアンプは沼口工房とのコラボ。21世紀電源、大電流CPM+シルバーマイカ、LCMに加え、独自のチョークレス整流回路となっています。つい先日の妙高オーディオ倶楽部発表会でも圧倒的な高評価を得たそうです。
聴かせていただくと、立ち上がり立ち下がりのスピードと動と静のコントラスト、立ち下がりの音の減衰の鮮明さが、どれもが抜き出た違いとなって体感されます。
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前回訪問時と違って、プリアンプはトランス入力の単段真空管アンプです。この違いもあるのか励磁式のシングルスピーカーから驚くほどのエネルギーと情報量を引き出していました。
同じ構成の電源回路で、出力管の違うアンプとの比較も聴かせていただきました。
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感嘆させられたのはウェスタンVT-52。改めてウェスタン管の音の良さには驚かされました。雰囲気があって音に深みを感じさせ、シングルなのにエネルギー感はPPと遜色がありません。
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一方、ロシア管GM-70はいかにも鈍重で粗い。それもこれも電源回路によって赤裸々に浮き彫りにされてしまうということなのでしょう。
そのことは、音源についても同じ。
ほとんどが録音同好会によるジャズコンボの生録。ほぼワンポイント録音で、レコーダーやマイクアンプなどにはすべて出川式電源が使用されているもの。その生々しさは半端ではありません。
一方で、巷のオーディオファンがよく取り上げる某国内レーベルのディスクは、一聴したとたんに商業的な臭みがぷんぷんとしてきて聴くに堪えません。演奏がどうのというのではなくて、生録の一発録り無編集の潔さとその空間の透明さに対して、あまりに余分な何かを感じてしまうのです。そもそもSNが良くない。何かが音にまとわりつく感じがします。
Harubaruさん宅でかけていただいて鮮烈な印象を受けたディスク。
We're All Together Again_02.jfif
ちょうど、Harubaruさんから返却、戻ってきたとのことでかけていただきました。全く同じディスクです。
かなり印象が違います。Harubaruさん宅での再生はかなりハイファイ優等生。こちらはもう汗のしぶきが飛んできそうなエネルギッシュな再生。あえて言えば粗暴なほど。この違いには驚かされました。パワーアンプは共通なので、スピーカーの違いが大きいのでしょう。
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このソフトは、後日、我が家でも聴いてみましたが、あまりに違うので腰が抜けるほど。そのことは、また、後日レポートすることにいたします。
帰りには、出川さんの家庭菜園の朝どり枝豆やミニトマトをどっさりいただきました。猛暑の一日の遠征でしたが、帰宅後は冷たいビールでさっそくゆでたての枝豆をいただきました。美味でした。

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G.メノッティ「領事」 (新国立劇場オペラ研修所 試演会) [コンサート]

ジャン・カルロ・メノッティは、イタリア生まれのアメリカ人作曲家。
ミラノのヴェルディ音楽院に入学するも、父親に先立たれて渡米してフィラデルフィアのカーティス音楽院に進学した。1歳年上のサミュエル・バーバーとは在学中に親しくなり、長く私生活をともにする関係でした。
二十世紀アメリカオペラともいうべきジャンルの中心的作曲家。バーバーもそうですが、作風はいたって正統でかなり保守的ですが二十世紀の時代の息吹を伝えています。このオペラもとてもわかりやすく、しかも、あの時代の冷ややかな空気感に満ちています。多くの一幕オペラをてがけてきたメノッティの初の全三幕のこの作品は、初演された1950年のピュリッツァー賞を受賞しています。
1000席ほどの中劇場での上演。親密でちょっと濃密な距離感と音響空間を個人的にとても気に入っています。新国立劇場ならではの、いわば、産地直送、蔵出しの直売店とかアウトレット的なところがあって、チケットプライスもお財布に優しい。
この日も、オーケストラピットに2台のピアノが入っての上演で、舞台も中劇場ならではのセンスあふれるシンプルなセットで、左右を大きく使って歌手たちを動かす小気味の良い演出でした。
ヨーロッパのとある都市。反政府活動家のジョン・ソレルは秘密警察に追われ自宅にまで踏み込まれますが、老母と妻のマグダはしらを切り通します。国境を越えて逃亡することを決意し、マグダに、ある国の領事に面会し家族の保護を求めるようにと指示します。
マグダが領事館に行ってみると、待合室には様々な事情を抱えた人々がビザの申請に訪れています。ところが、受付の秘書は、お役所仕事の典型で繰り返し書類の提出や訂正を求めるばかりで埒があかず、誰一人ビザを受け取れずにくたびれ果てている。 マグダも秘書に領事に会わせてほしいと懇願するが、けんもほろろ。何度も領事館に通うものの、日時はむなしく過ぎていくばかり…。
反政府活動、秘密警察、亡命、立ちはだかる官僚主義…そういう時代のリアルと、いつまでもたどり着けない先の自由への渇望といったカフカ的な不条理、ヌーヴェルバーグ的な絶望と挫折といったものに、さらにアメリカ的なコミカルなエンターテイメントでほどよく味をつけたといった風のオペラはとてもなじみやすく面白い。
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研修生の歌手陣はいずれも大健闘。特に秘書役の大城みなみ(第24期)の演技・歌唱は秀逸。異国の女役の冨永春菜(第25期)も静かな色気がある。ソレル役の佐藤克彦も小柄ながら活気のある明快なバリトンで大活躍。
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フレッシュな歌唱力には堪能させられたのですが、残念なのは言葉。クラシックの歌手というのは、どうもあまり英語が得意ではないようで、今ひとつ音楽にのってこない。発音がどうのというのではなく、英語ならではの言葉の音楽的魅力に欠ける。作曲者と直接交流のあった指揮者の星出豊自身が、メノッティの言葉として「詩を語るがごとく」と語っているが、それがそのようになっていない。「Good-bye」が続けて三人それぞれに発声される場面でさえいずれも単調で響かない。
以前、チャイコフスキーの「イオランタ」を上演した時にはロシア語の指導者が付きっ切りだったと聞いていますが、今回の公演ではそうした語学トレーナーがいないようです。どうも英語というのは、日本人にとっては義務教育から習う最も身近な外国語ということでかえっておろそかになっているのかもしれません。ルネッサンス歌曲にしろ、ブリテンやガーシュイン、バーバーなどの近現代歌曲にしろ、英語だってクラシック歌手には大事なレパートリー。今回の公演が示唆するように今後はアメリカオペラにも関心が高まっていくでしょう。
英語…意外にこれからの日本人歌手の課題なのではないでしょうか。
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新国立劇場オペラ研修所試演会
オペラ「領事」/G.メノッティ
2022年7月18日(金) 14:00
東京・初台 新国立劇場中劇場
(1階12列42番)
【作曲・台本】G.メノッティ
【指 揮】星出 豊
【演 出】久恒 秀典
【照明】立田 雄士
【音響】河原田 健児
【映像】荒井 雄貴
【衣裳アドヴァイザー】増田 恵美(モマ・ワークショップ)
【ピアノ】岩渕 慶子 星 和代
【主 催】新国立劇場
出 演(7/18)
●オペラ研修所第23・24・25期生
●賛助出演
 北川 辰彦(第5期修了)、松中 哲平(第16期修了)、水野 優(第19期修了)
【マグダ・ソレル(ジョンの妻)】大竹 悠生
【秘書】大城 みなみ
【ジョン・ソレル】佐藤 克彦
【母親】前島 眞奈美
【コフナー氏】松中 哲平〈賛助出演〉
【異国の女】冨永 春菜
【魔術師(ニカ・マガドフ)】水野 優〈賛助出演〉
【アンナ・ゴメス】野口 真瑚
【ヴェラ・ボロネル 】杉山 沙織
【アッサン】長冨 将士
【秘密警察官】松浦 宗梧
【レコードの声】河田 まりか
【二人の私服刑事】松本 美音 竹村 浩翔
■合唱:東京音楽大学 国立音楽大学 東京芸術大学 有志 ほか
■管弦楽:新国立アカデミーアンサンブル

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「パンツが見える。」(井上 章一 著)読了 [読書]

飽くなき文献渉猟を積み重ね《桂離宮神話》の虚構を暴いた井上先生が、ここでは《白木屋伝説》の虚構を暴いて見せた。まさに驚愕の真実である…

ネタバレかもしれないが、以下に本著の日本女性のパンツに関する見解を要点のみ列挙する。

1.日本女性は、昭和初めごろまでノーパン(ノーズロ)のほうが一般的だった。
2.白木屋火事の伝説は事実に反する。
3.ズロースの着用は、洋装の普及にともない陰部を覆い隠すものと認識された。
4.だから、ズロースが見えることは性的羞恥心の対象とはならなかった。
5.1950年代にパンチラ革命が起き、以降、性的関心や興奮の対象となった。

団塊の世代の私にとっては、なるほどねぇということであって衝撃の事実とは言いがたい。

ミニスカートの爆発的流行の時代にニキビ顔の青春を過ごした世代にとっては、井上先生の考察は、誤解の始まりにせよ、誤解が解けていく過程にせよ、まったく実体験に沿ったものだからだ。

母親によると、私自身は幼少のみぎり「女の子っておかしいね。でんぐり返しするとパンツが丸見えなんだよね。」と言っていたそうだ。母はそれを聞いて笑って喜んでいた。その母から、私は白木屋火事のことを確かに聞いた。それは、「和装の下は腰巻きで下から陰部が丸見えになるので、女性は飛び降りるのを嫌がって焼死した」というもの。まさに一言一句違わぬ《白木屋伝説》であった。

小学校高学年の頃、学校では《スカートめくり》が全盛を極めた。女子児童が、みんな短めのスカートで簡単にめくれた。めくると大騒ぎで嫌がるので面白くて男児は驚喜し熱中した。担任の女性教諭はこれを目撃するとニヤニヤしながらも、もちろん厳しい指導があって、現行犯はそのまま一時間ほど現場の廊下に立たされた。なお、本著に「スカートめくり」が論考されていないのは、文献には残されていないせいか。あるいは学術的「日本風俗史」のスコープ外ということか。

このパンツの歴史的経緯に薄々気づきだしたのは、高校を卒業して太宰治に夢中になったころ。「斜陽」に主人公の母である元華族夫人が庭で用を足す場面(この小説も井上先生は見過ごしている)。それが社会人になって、田舎町の年増芸者に、「和服だから下には何もはいてないのよ。ホラ!」とからかわれて、初めて最終的な歴史認識に至った。私が、ついに歴史修正主義の偽善から目覚めた記念すべき刹那であった。

井上先生もおそらく同じような精神年齢的成長を遂げたのだろう。私よりもいくつか年下なので微妙な違いはあるかもしれない。

いずれにせよ、要約すれば前述の5点ほどに尽きる。確かに、白木屋伝説の虚構の指摘は、偉業かもしれないが、桂離宮神話には較べるべくもない。それをまあよくここまで、くどくどと書くものだと呆れた。

テーマがテーマだけに、後半はかなり食傷した。


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パンツが見える。
 ―羞恥心の現代史
井上 章一 (著)
朝日選書

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「ふんどしニッポン」(井上章一著)読了 [読書]

私が卒業した小学校は区内で二番目に古かった。区内最古を誇ったのは、創設が1年だけ前の明治7年開校のY小学校でした。

そのY小学校は《赤ふん》で有名でした。区の臨海学校で一緒になると、なるほど、男子児童は全員赤ふんで、これを見た同級生の女の子たちは大騒ぎ。私自身もぜったいイヤだと思った。昭和30年代半ば、前の東京オリンピックより以前のことでした。

この《赤ふん》というのは、学習院の名物だそうで乃木大将が院長時代に始まった遠泳が今でも伝統だそうで、今上天皇の小学生時代のふんどし姿の写真(本書ではなく、出所は『女性自身』)まで公開されています。
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「下着」というキャッチーな帯にかかわらず、水着としてのふんどしにもかなりのページ数を裂いています。なるほど、男性水着としてのふんどしは戦後になってもまだまだ一般的だったというわけです。女性は、大正初期から西洋風の水着に置き換わり、貴賤と地域を問わず普及していたのに…なのです。

明治維新以来、早くから外装は西洋化した男性の服装ですが、下着としてのふんどしは戦後まで続いていた。フロックコートに身を包みながら、その下の見えない下着はふんどしだったというわけです。一方で女性は、早くからズロースとかパンツと呼ばれる西洋下着を身につけていながら、外装は和服という出で立ちが戦争の頃まで続いていた。

女性と男性の服飾風俗史という観点では、和と洋の継承・受容の経緯が大きくねじれているというのは面白い指摘です。

ふんどしは、恥ずかしい下着ということではなく、相撲に見られるように、神事、祭事など裸身こそ清く凜とした姿だと誇って外見にさらすことに躊躇がなかったというのも日本人の風俗のあり方として卓抜な指摘です。その《男児の矜持》は仕事着にも通じていて、軍隊では当たり前。中国大陸の前線のただなかでふんどし姿で榴弾砲の設営や、渡河作戦を遂行している報道写真を示していますが、不思議と違和感がありません。ふんどし姿の裸身は、公然と新聞や写真雑誌などで公の目にさらされていて何の疑いもなかったというわけです。

とはいえ、ちょっと下心過剰のところがあるのはいかがなものでしょうか。女性だってふんどしをしめることはあった…との指摘は、まあ範囲内かもしれませんが、男女問わず裸身をさらすことに昔は今ほどには抵抗はなかったと、海女のハダカや海水浴のポンチ絵を掲載するのは、風俗論の名を借りて後進性を面白がる猥褻すれすれのところがあって、好ましいとは思えません。

著者は、文献資料を駆使した建築史がもともとの専門ですが、本書は文献といってもほとんどが、ハダカの写真やポンチ絵。いつもながらの井上先生のエッチ度満開。学術的ないかめしい作り顔で内心ニヤニヤしながら眺めるにはもってこいの教養書というわけです。


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ふんどしニッポン
下着をめぐる魂の風俗史
井上章一 著
朝日新書

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